『戦犯に託された【朝顔の種】』
戦後シベリアに日本兵60万人が捕虜として抑留され、その5年後に969人が中国に引き渡され今度は「戦犯」として撫順戦犯管理所に収容された。彼らは「命令に従っただけで、なぜ俺たちが戦犯」と反抗したが、管理所は何の制裁も復讐も強制もせず「人道的」扱いをし自身が過去を認罪するのを待ち続けた。
彼らは「焼き尽くし、奪い尽くし、殺し尽くし」の所謂『三光作戦』(中国側の表現)どころか、生体解剖や強姦、人間地雷探知機、初年兵訓練の訓練に的として中国人を突き刺す「実的刺突」など、あらゆる加害・虐殺をしてきたため「処刑」さえ覚悟していた。しかし、その人道的扱いは何時になっても変わらず、数年後、徐々に彼らは過去を振り向き「認罪」していき「鬼から人間」(彼らの証言)に戻って行った。
1956年の軍事裁判では周恩来は一人の無期も死刑も認めず、約1000人のうち起訴されたのは政府・軍高官の45人だけで、他は全員「起訴免除」とされ帰国を許された。起訴された45人もシベリアと管理所の11年を刑期に参入され満期前に帰国した。満州国国務院総務長官の武部六蔵は病気のため病室で禁固20年の判決を言い渡された直後、「病のため釈放」とタンカに乗せられ興安丸で帰国した。
帰国翌年の57年彼らは『中国帰還者連絡会(中帰連)』を組織し、高齢のため02年に解散するまで、自らの加害・虐殺や戦争体験を証言しながら反戦平和と日中友好を訴え続けた。その運動は今『撫順の奇蹟を受け継ぐ会』が継承し、 川越にその資料等を収集している【NPO・中帰連平和記念館】も設立されている。
そんな元戦犯の一人である副島進さん(故人・佐賀市)を前記「受け継ぐ会」九州支部が訪ね体験をお聴きした中で、この朝顔の話に感動し絵本『赦しの花』を自費出版し幾つかの新聞でも紹介された。
副島さんは帰国直前にある管理所職員から「もう2度と武器を持って大陸に来ないで下さい。日本に帰ったらきれいな花を咲かせて幸せな生活を築いて下さい」と朝顔の種を数粒貰って帰国した。副島さんも中国人への加害体験がありその優しさに感動し、帰国後、毎年この「朝顔」を咲かせていたのである。
この朝顔は日本の朝顔と違い特徴は葉が「ハート型」をしており、小さめで濃いめのブルーで朝顔の原種という感じの花である。今も「友情、反省、赦し、平和」のシンボルとして前記「受け継ぐ会」の仲間を通して全国で咲かせている。