亡 き 親 友 の こ と 

 

 

 私の無二の親友は東京・板橋区清水町時代の中学の同級生(1941年生)だった。

 しかし、残念ながら彼は定年1年前に「くも膜下出血」で倒れ、東大病院で2度の手術にも堪えたが首から下が動かず言葉も発せず、転院先の病院で辛い1年間の闘病の末に亡くなった。倒れる前に「定年になったら二夫婦で、北海道に定年旅に行こう」と約束していたが叶わなかった。私たちは 結婚後も子連れで家族ぐるみの付き合いだった。

 

 彼は中学時代から学力優秀で、一方の私は「デクノボウ」で在学中は余り交流がなく、卒業後、家が近かったため付き合う様になった。その原因はお互「長屋・貸間」住まいの貧乏暮らしの共通点がキッカケだった様な気がする。彼の父親は町工場に勤める酒好きで無口な鉄工職人で、専業主婦の母親は優しい人であった。

 

 尤も、その貧乏ぶりは一人っ子の私より、歳の離れた4人の妹がいた彼の方が大変だったに違いない。しかし、彼の家は二軒長屋で仕切は壁だが、我が家の方は一軒家を3所帯で借る「貸間」、つまり襖1枚で隣家のためお互いタンスを背に置いた6畳一間の暮らしで、よく隣の激しい夫婦喧嘩が聞こえた。 

 その後、別々の高校に入り私は板橋から練馬に転居したが、その後もよく板橋の彼の家を尋ねた。彼は何時も清水町の自宅から東上線の常盤台駅まで帰りに乗る自転車を押しながら、長い夜道を話をしながら送ってくれた。


 高校卒業後お互い一部上場企業に就職し、彼は更に東京理科大学の夜学で学んでいたが、卒業1年前に父親が倒れ、幼い4人の妹たちを養うため彼は大学を中退せざるを得なかった。その後、彼は子会社の研究室勤務となり「デミング賞」を受賞したが、彼が大学を卒業していたら自身のためだけではなく、会社や社会のためにもっと活躍したと思うと可哀想でならなかった。

 

 頭脳明晰だが体力の無い彼を私は旅や山に誘って歩いた。ある夏には【花巻→早池峰山→盛岡→種差海岸-金田一温泉→十和田湖→弘前→岩木山→男鹿半島→鳥海山→月山→仙台】と回り、『竿灯、ねぷた、仙台七夕祭』の東北三大祭りも観て回り、帰りはある銀行の仙台支店に勤めをしていた同級生を呼び出し驕ってもらった。

 男鹿半島では「門前」の民宿に泊まるためバスの終点で降り、二人で駆け足で夕陽の見える所まで走って戻り日本海に沈むキレイな夕陽を見たことは忘れられない!後日、結婚した愚妻の実家が男鹿で、その時に女房の家の前を通っていたとは夢にも思わなかった。


 彼の亡き後、夫人に聞いた話しでは、何との「見合い写真」がその東北旅行のと時に鳥海山に登り、彼がバテて雪渓の上で私が撮った「麦藁帽子に首手ぬぐい」の写真だったとは呆れたが、気取らない処が気に入られたのか? その後、お互い結婚し彼は3児の父に、私は2児の親になったが、女房同士も気が合ったのか?家族ぐるみで長い間往き来をして来た。


 彼は父親に似て酒好きで、会社の近くの自宅に「酔っては部下を自宅に連れてくる」と、夫人がよく言っていたが、我が家と違い仲の良い夫婦だった。我が家は娘に「そんなに仲が悪くてどして結婚したの?」と言われる始末である。
 彼は娘の花嫁姿も見ずに逝ったが、その後、3人のお子さんの結婚式には夫婦で参加させて戴き、その3人の子も独立し夫人はいま独り暮らしだが、近くに子どもや孫もおり元気を取り戻している。今、彼はご両親と一緒に父親の故郷である福島県郡山市内の菩提寺に眠っている。