【1984年】
「差別を生み出す教員免許法改正」(84.5.4・毎日新聞「読者の目」)
臨教審法案審議が始まった。政府は教員免許法の改正を考えているわけだが、これは政府の言う学歴社会の是正に反する。
教員とは上司の言うことを聞いて主任、係長、課長、部長と進むものではない。原則として一生、平教員でよいはずである。教員の社会へ会社組織を持ち込むべきではない。 まして、短大、大学、大学院と、その学歴で差を付ける等、話のほかである。
学歴の高い人、必ずしも良い先生とは限らない。教育は信頼があって初めて成り立つ。学内に教員の差別が生まれることは、決して学校生活にプラスにならない。改正がなされれば、教員たちはより上級の免許を取るために力を注ぎ、教育がおろそかになる心配がある。
「金額より国の姿勢の問題」(84.7.3・毎日新聞「読者の目」)
「教科書有償化賛成」を読んだが、私はやはり反対です。清水さんは、年間負担二千数百円とお考えのようですが、その他にPTA、ドリル代、業者テスト、給食費などと、月にその何倍もの費用がかかる。ロ-ンを抱えるサラリ-マンには、年二千円でも負担は軽い方が助かります。新聞にも報じられた、塾や家庭教師など任意の教育費16万円と言う話しは、私にはどこの国の話かと思うだけです。私にも中1と小4の二児がいますが、どこへもやっていません。私は一部上場の大手企業に高卒後25年勤めています。我が家に余裕がないのは、私が分不相応の住宅ローンを抱えたからだろうか。
100兆円を超し、借り換えまで考えなくたはならない国の台所、私もなんとかしなくてはならないだろう、と思います。しかし、そもそも教科書無償というのは、金額の問題ではないのです。教育に対する国の姿勢の問題です。教育以上に大事なものがあるだろうか。教育に投資を惜しんではなるまい、と思う。私は言いたい。有償化して浮く予算は450億円、それはF15戦闘機たった4機分であることを。どっちを削るべきか、よく考えてほしい、と思う。
「小中運動会は重ならないように」(84.9.28・毎日新聞「読者の目」)
運動会の季節である。地区によっては小、中学校の運動会が同日というところがある。親としては、見に行ってやりたいと思うのが人情であり、小学生は親の来てくれるのを楽しみにしている。
しかし、小、中学校にそれぞれ子供が通学している例は珍しくない。当然、同日だと両方に行ってやるわけにはいかない。小中学校は同じ市町村立であり、調整することは可能である。
親、子、学校、教師の交流ということを考えれば、親が運動会に参加するということは大変有意義であもあり、望ましいことである。ぜひ小中学校の運動会は重ならないように検討してほしい。
「臨教審事務局案の修正は前進」(84.10.5・毎日新聞「読者の目」)
文部省や中教審があるにもかかわらず、首相直轄の臨教審を設け、委員も専門委員も”おれが決める”式の臨教審には反対である。しかし、できてしまった以上、これをしっかり見定めなくてはならない。
第2回の総会で、事務局が出した「過半数で会議成立、三分の二で議決」を、「委員の合意を得て決定する」と修正下という。私は一歩前進と理解した。一般に政府の審議会は行政や事務当局の追認が多い。しかし、とくに教育はそんな事であってはならなぬ。自主性を持って検討しなくてはならない。先日のマル優の中間報告のようなことでは審議会は無いに等しい。
臨教審は国民の目の届くところで行なわなくてはならない。その点「会議の都度その概要を公表」「審議経過の概要を適宜公表する」「公表回数も増やしたい」などは評価できる。しかし、私達がそれを詳しく知るには新聞しかない。新聞がその重責を十分に果たしてほしいと思う。
「校 門 の 正 直 の 木」(84.11.20・毎日新聞「読者の目」)
先日、小4の娘が「県の木は何」と聞く。私は「校門を入った所に植えた木、ケヤキだろ」と答えると、娘は「あれ正直の木と書いてある」と言うので大笑い。その挿話を思い出した。
昨年入学した1年生3人が下校途中にお金を拾い警察に届けた。しかし、落し主不明のまま時期がきて拾い主に渡された。拾い主の親子たちは相談し学校に寄付して有効に使ってもらうことにした。学校では校庭に緑が少ないと、県の木のケヤキを正門の近くに植えた。そして3人の子の名を添えて「正直の木」と名を付けた。この春のことでした。
私は学校の取り扱いに感心した。このケヤキは子供たちの心の中でもすくすく育ち、一生残るに違いない。受験だ、成績だ、と学力傾向の強い中、とくに小学校時代は思いやり、優しさ、夢を大切に育ててやるべきではなかろうか。
【1985年】
「生徒に学校側の責任負わせるな」(85.1.23・毎日新聞「読者の目」)
私は昔の軍隊のような、連帯責任制には反対である。今回の明徳義塾高の場合、悪事を働いたには野球部員でもなければ、生徒でもない。それなのに、なぜに春のセンバツを辞退しなくてはならないのか。生徒が可哀そうでならない。
悪事を働いたなら、当人が責任をとるべきであり、共同謀議でない限り、その家族、生徒、学校には責任はなく、影響を波及させてはならないと思う。校長代理の不始末で、なぜ生徒が大会に出られないのか。それは生徒の責任ではない。あまりにも生徒があわれである。学校当局も高野連も再検討してほしい。
学校とは、生徒が主役である。生徒が中心であり、なによりも生徒の幸せを最優先に考えなくてはならないはずである。これは、野球だけでなく、学校教育全般にいえることである。
「教師は対価を求めるものか」(85.1.24・東京新聞「発言」)
9日”教育110番”の進路対策費に関連して「私立の場合、クラス担任をすれば、中元、歳暮のシ-ズンにはお米以外は買わなくての済む・・・・・・」で一言。
そのような考えの人に教師の資格はない。教育ほど大切なものはなく、教育に本気で取り組む教師には金銭では計れない苦労があると思う。しかし、俸給以外に代償を求めないから尊いのである。
教育の苦労は何により報われるのか。それは教え子とその父母の教師への感謝であろう。卒業後も年賀状を出し、季節の変わり目には便りを忘れない。同窓会には主賓として恩師を招く。子弟が時の流れを超えて互いに健康を喜び合う絆こそ、教師みょうりとはいえないか。
金銭や物で表現を欲するなら、教師を辞すべきだろう。もっと金銭的報酬の豊かな職場や職業はほかにあるはずなのだから。
「警察に頼らずに教育やしつけを」(85.5.28・「 社会新報」)
先日、警視庁少年一課が「いじめ相談コ-ナ-」を開設し、電話が殺到したという商業紙に記事に接した。
これは先日、俵萌子さんらが結成した「民間教育審議会」(略称・女性民教審)の「教育110番」に電話が殺到したのに警視庁が刺激されて開設したのではないかと思う。 私はこれを非常に心配する。子供や親が教育やしつけの問題を警察に頼っていいものだろうか。一体、教育はどこへ行ってしまったのだろうか。親、子、教師の間はそんなにも信頼関係がなくなってしまったのか。
これは、社会状況も無関係ではないが、一義的には親と教師の責任であると思う。悩みや言いたいことを親にも教師にも友にも相談できず警察に相談する。考えただけでも寒気がする。
それでなくても、学校が補導指導の名の下に安易に警察権力と手を結び、ひどい県では生徒の名簿や顔写真まで警察に渡して問題になったことがあった。
子供の非行やしつけ、教育を警察権力に頼ってはいけないと思う。辛くても大変でも、親子と教師で努力して解決しなくてはいけないと思う。
それには。親と教師が子供の信頼を取り戻すことである。いや、反省して取り戻さなくてはならない。
警察に相談するということは、それだけ教師と親が信用されていないことの裏返しである。道は遠くても、親と教師が力を合わせて子供たちの幸せに努力しなくてはと思う。
「市民に信頼される警察」(85.6.14・毎日新聞「みんなの広場」)
過日、本紙の「警官が暴行?記憶喪失」を読んだ。検問で少年に免許書の提示を求めたところ、挑発的な態度で拒否したので、警察官が暴行を加えたという。
私はこの少年の好意を肯定するつもりはない。しかし、警察はどうしてこのような態度をとったのかよく考えるべきだ。市民の生命財産を守る警察。感謝や協力こそすれ、敬遠されるはずはないのである。しかし、なぜこのように反感を持たれたり、協力が得られないのだろうか。
免許書を見せないことが、「警察をなめている」と暴行を受けるほど悪いことか。複数の警官がいたなら、暴行を加えなくても、免許書の有無などは容易に確認できるはずである。免許書不提示を責めるより、自らの信頼を得るために、不断の努力をすべきである。どうか、市民に信頼される警察であることを望む。
【1986年】
「幸福の基本は家庭生活」(86.3.20・毎日新聞「みんなの広場」)
経企庁が発表した「国民生活指標」を見て、心配になった。
国民の多数は中流意識を持っているという。そして、物はあふれている。金さえあれば何でもできそうな社会、すべては金、そんな世に中である。
発表された「生活指数」は特に家庭生活の落ち込みが目立っている。私にはそれが一番心配だ。人間は心を持った動物である。優しさ、思いやり、それが人間として一番大切なことである。それが足りないから「いじめ」も発生するのではないか。
家庭生活はその基本である。ところが、離婚、単身赴任、独居老人や老夫婦世帯。家庭より仕事優先、そうしなければ出世ができない。
年間の自殺者は交通事故の二・五倍の二万五千人にもなるという。人の心は金では買えない。勉強よりも、学問よりも、もっと大切なもの、優しさや愛情を大切にする社会にしてゆかなくてはいけないだろう。
「戦前なみの思想教育」(86.10.7・毎日新聞「みんなの広場」)
文部省の教育課程審議会は、現行学習指導要領を改訂し、日の丸、君が代の掲揚、斉唱を強制する提言を行なうという。文部省は「指導要領は法的拘束力がある」と主張せている。
そんなことが許されるのだろうか。現在でも「掲揚、斉唱が望ましい」とされている。つまり合意が得られるなら、行なって欲しいと政府の希望が述べられている。なぜ、それがよくないのか。それを越えた今回の改定は明らかに思想教育である。
異論や多様な意見があるものを、たとえば多数意見としても、それを強制することは思想教育につながる。戦前・戦中は多数意見に逆らう者は「非国民」とされた。それと同じ考えである。
学校とは、同一規格のものを大量生産する工場ではない。多種多様の考えを持つ子供や教師を認める社会、それが本当の自由主義社会の教育であると私は信じる。
【1989年】
「日の丸認めぬ人いてもよい」(89・2・17・毎日新聞「みんなの広場」)
学習指導要領の改訂により、国歌・国旗の「指導が望ましい」から、「指導する」となり強要することになった。違反には処分もありうると、実質義務付けである。
例え文相の言う通り一歩譲って日の丸、君が代が定着しているとしても、残りの少数意見の人は、多数に同調しなくてはならない義務があるのか。もし、それが教育と考えているなら、恐ろしいことである。それは戦前教育への回帰であり、思想教育である。個性を伸ばすどころか、思想、信条の自由、良心の自由を侵すことになる。
日本の学校教育は、多数意見や学校の言うことをよく聞くことを善とし、多数意見に反論したり、異論を述べる子を認めない傾向にある。みんな同一の横並びを目的とし、まさに同一規格の大量生産を目ざす「教育工場」である。
君が代、日の丸を認めない人がいても、国民生活に何ら問題はない。それを強制するのは民主国家ではない。
「すべては教育にあったのでは」(89・8・21・毎日新聞「みんなの広場」)
私は終戦記念日を機になぜあの悲惨な戦争が防げなかったのか考えてみたが、すべては教育にあったのではないかと思う。大東亜協栄圏、聖戦、八紘一宇、一億玉砕、すべて教育の幻である。教育の力が方向を誤るととんでもないことになるという事実である。
当時は表現の自由どころか、価値観の違いも異論も認めず、上意下達だけの教育であった。せめて知る権利があったなら、どこかおかしいと疑問も持ったであろう。しかし、情報もすべて国家機密の名の下に情報操作され、検閲された。
今、教科書は検閲され、校則に代表される管理教育はどこか戦中の教育に似ていないか。否、君が代、日の丸を認めない人間は教師になれない現実を見れば、すでに同じ道を歩き始めている。
人間は他人に迷惑をかけない限り、自由でなくてはならない。君が代、日の丸を認めないと誰が困るのか、困るのは国家権力者だけである。
ものが自由に言える今のうちに、教育権を国家権力から国民、市民の手に取り戻さなくてはならないと思う。同じ過ちを繰り返さないためにも。
「日の丸君が代、法以前の問題」(89・12・27・朝日新聞「埼玉版」)
「日の丸」「君が代」の取り扱いについて竹内教育長は定例県議会で「新指導要領で明確にされた規定に基づいて指導に徹底を図る」と答弁したという。だが、これは法制うんぬん以前の問題であって、憲法の思想及び良心、信教の自由に関係する問題である。
私は「日の丸」は支持するが、「君が代」には反対する。しかし、それを他人に強要しない。なぜなら、各自が心の問題として自分で決める事だと思うからだ。たとえ「日の丸」支持しない人がいても、私はなんら困らない。では、だれが困るのか。それは「日の丸」「君が代」を利用したい為政者でけである。たとえ多くの人が支持し定着したとしても、残る少数の人に強制できる筋のものではなく、そんなことを実行すれば思想教育である。文部省は従わない教師は処分するのだろうか。受け入れなかった児童生徒までも処分するというのだろうか。それは治安維持法時代の教育に戻ることでありまさにファショである。
【1990年】
「子供たち信じる真の教育に感動」(90・3・15・読売新聞「気流」)
「ツッパリ代表、涙のおわび」の記事を読んだ。今月、退職する校長はその生徒たちと抱き合って泣いたという。教師冥利(みょうり)に尽きる話である。
先の「パンチパーマ、服装違反で卒業式ダメ」と何と対照的なことか。
教育とは、教師や学校の言うことをきく人間を作る所ではない。校則などなくても、 事の善悪、迷惑、自由と責任が自分で判断できる人間を育てることである。
それは「北風と太陽」の話と同じで、決して力や強制では解決しない。その子の存在を認め、やる気を起こさせなくてはならない。それが教育であり、ただ言うことを聞く人間を育てるのは調教である。
ツッパリ君たちは、どこかに不満を持ち、存在を無視されている自分たちを認めて欲しいのである。彼らはツッパリがいいことではないのは十分承知している。何も学力だけが万能ではない。子供を信じ、長所を伸ばし、認めてあげることこそ教育のスタートである。
「首相は教科書を見ましたか」(90・6・2・毎日新聞「みんなの広場」)
首相や文相は韓国朝鮮に対する差別と虐待の歴史について、「教科書に書いてあり、現場の教師に認識をもってもらうことだ」と、社会や子供たちが日本による朝鮮半島支配の歴史を知らないのは、まるで現場教師の責任のような発言をした。
首相は教科書を見たのか、あの侵略戦争に付いて何ペ-ジ書いてあるか、朝鮮半島の支配に付いて何行書いてあるかを知っているのか。私は念のため子供の中、高生用の教科書を確認した。そこには土地の収奪、日本語取得や日本名を強制されたことの記述は無く、ましてや女子挺身体の名を借り従軍慰安婦として送られた事実の記載はない。強制連行でさえ欄外へ(注)としてやっと載っている。
300ペ-ジ近い教科書の内、韓国朝鮮の記述を集めても1ペ-ジにも満たない。到底「書いてある」という状態には程遠い。アジア諸国の教科書は何ペ-ジにも渡ってその歴史を教えている。
日本が本当に過去の歴史を教育に生かす気があるなら、神話や東郷元帥を教えるより、先ず、教科書を見直し検定の名による検閲を緩和し開かれた教科書を認める方向で出直しをすべきである。
「持 ち 物 検 査 に 涙」(90・6・6・朝日新聞「教育欄」)
今春入学した娘の高校で、喫煙が発見され持ち物検査ということになったという。
娘の担任はこの春教師になったばかりの女性の先生で、彼女は自分のクラスの生徒にそんなことは出来ないと、持ち物検査をやらなかった。ところが、それを知った学年主任は「そういうことでは困る」と抗議した。
新米先生は生徒たちに「こんなことしたくないんだけど、ゴメンネ」と涙を流しながら検査をしたという。私は娘が素晴らしい先生に出会ったことを知った。生徒を疑うことがどんなに辛いか、そして他人の持ち物を勝手に開け検閲することがどんなに重く重大なことか、それは生徒の心を深く傷付け教師との信頼関係を失うことを、この先生は知っていたのである。 喫煙者を見いだすことに反対はしない。しかし、この方法は一番安易で簡単な方法であるが、それは教育ではない。この先生が、何時までもこの心を大切にし、「持ち物検査が当たり前、当然」と、何にも感じない先生にならないことを信じたい。
「服装などより、若者に希望を持てる指導を」(90.8.4・「組合新聞」)
7月上旬、私は「新任主任研修」なる教育のため3日間研修所は通ったが、事前に職場長から「研修所の規定には無いが規律を守るため制服着用の上、白いシャツにネクタイ着用で行くように」と強要された。制服は支給され当然としても、支給されていないシャツやネクタイまでなぜ強要するのか、私は白い開襟シャツにノーネクタイで参加した。規定に無いものを会社に強要する権利はあるまい。
私は「規律]とは皆が同じことをすることかと辞書を引いた。広辞苑には「人の行為の基準となるもの」とあつた。すべて同じ格好をさせたいなら会社は支給すべきである。
重役でさえ現場巡視の際、ブルーのシャツを着て来た人もいたし、第一、会社で支給している開襟シャツはブルーであろう。今どき薄いブルーやストライプのシャツは常識である。
研修所ではみんな上着は殆んど着ず、職員ですら着ていなかった。着て来ても教室ヘ入れば脱ぐ始末、当然であろう。この暑いのに上着を着てネクイを締め冷房を効かすなどというのはナンセンスである。 かつしてショーエネとかで閣僚が半袖開襟シャツを着てパフォーマンスしたことがあったが、エネルギーの無駄を考えてもナンセンスな話である。
もちろん研修所は遊びに行く所ではない。アロハシャツでも着て行ったのならともかく、支給されていないものは本人の常識に任すベきである。
我々は作業によっては挨だらけ、汗だらけになるため靴下も履去替えるが、その作業用靴下や、支給では不足する軍手は自分たちの賃金で購入して作業に供している(その費用は必要経費とは認められない)。会社はその費用を負担する気があるのか。軍手が不足でも労使で合意に達したものに異議を唱える訳にはいかない。我々がそのような努力をしているにもにも関わらず、支給していないものまで強要さ
れ私は無性に腹がたった。考えてみれぱ安全靴も軍手も夏期用作業服も、全て我々が要求し勝ち取ってきたものであり、何-つ黙っていて会社が支給したものは無い。それまでは作業靴や手袋まで自分たちの賃金で購入して働いてきたのである。
そもそも教育などとは格好でするものではない。格好だけ整えばいいとでも言うのだろうか。そんなことに神経を使うより、若い人たちに希望を持たせるためにも、日進月歩の科学、技術をもつときちんと教えるべきであり、電車がどうして動くか、どうして止まるのか知らずに、機械の掃除屋さんでは若い人たちに自負心や希望を与えることば到底出来まい。
「帝京大に甘い文部省の態度」(90・10・23・読売新聞「気流」)
高石前文部次官が理事長を努めていた財団に8億円も寄付し、製薬会社、出入り業者などから3億5千万円ものリベ-トの申告漏れが発覚した帝京大学の調査で、文部省はたった2時間の事情聴取に終わり口頭指導しただけという。 その中で、文部省当局は「調査するほどの人手もない」とか、リベ-トについて「立ち入り調査権がない文部省は業者を調べるわけにいかず、知っても意味がない」と答弁したという。
そもそも、国から補助を受けている大学が、元文部次官の財団に8億円のも寄付をするというのは、どういうことなのか。しかも、その調査をたった2時間の事情聴取で終わらせ、事実上、不問に付すというのは、大学と文部官僚との癒着と言われても仕方あるまい。
「二人の兄妹を優しく見守って」(90・12・24・毎日新聞「みんなの広場」)
幼女殺人の犯人が父親だったと言う。しかも、自分が遊んだ金の後始末をするための保険金目当てだったとのこと。私は憤りを通り越し虚しさで胸が一杯である。子供が親を信じられないで、一体だれを信じて暮らせばいいのだろうか。
それにしても、心掛かりなのは残った二人の高校生の兄妹のことである。世間は厳しい。しかし、何があろうと二人の兄妹には断じて何の責任もないのである。周りの人たちはぜひ、この二人をそっと優しく見守って欲しい。
本当に辛く困った時に、励まし、力になってくれる人こそ本当の友であり友情である。二人の友達やクラスメ-トの方々に特にお願いしたい。二人が辛くても力を合わせ、きっと頑張って生活してくれることを信じる。
【1991年】
「ナンセンスな他人との比較」(91・1・6・読売新聞「教育欄」)
通知表の存在は否定しないが、相対評価には反対である。なぜなら、勉強とは自分のためにするものであり、競争や順位を競うためのものではないからである。上から何番目、下から何番目というのはナンセンスなだけでなく、他人と比較することによる弊害もある。いくら頑張っても順位が上がらなくては、張り合いも持てない。順位を競わせ勉強させようというなら、それは教育ではない。どれだけ理解できたかを絶対評価すべきである。
「親子の間でも開封いけない」(91・3・1・東京新聞「発言」)
2月25日付”でんわ談話室”に「娘への合格通知開封まずいか」との主婦の話が載っていたが、私はまずいと思う。
入試で一番苦心し心配し喜ぶのは本人であり、たとえ単願で結果が予測できる通知でも本人に開封させるべきである。そして子供の喜ぶ姿を見てこそ、幸せを感じるのではなかろうか。
本人より先に結果を見るというのは親といえども身勝手である。そもそも未成年の自分の子供であっても、一人の人間として人格を認めるべきであって、入試結果に限らず子供あてに来た手紙を親が開封すべきではない。
幸いにして姉が止めさせ、妹に「危機一髪だったね」と言ったという。私はそれで良かったと思う。このようなことはたとえ親子であってもその信頼関係を崩すことにもなりかねないと思う。
「幅広ズボンも寛大な心で」(91.6.21・毎日「みんなの広場」)
埼玉県越谷市の中学で幅広ズボン着用の生徒が校則違反と登校禁止になっているという。このようなことは親と家庭のしつけと責任ではあるが、学校や教師という教育のプロとしては、このくらいのことでギプアップして登校禁止とは情けない。
彼らは要するに日立ちたいのであり存在価値を認めて欲しいのである。つまり不満があるのである。受験競争で出来のいい子だけ目をかけ、それ以外の子は無視され、生徒は余計突っ張るようになることを教師は理解しないのか。何も勉強や学力だけではなく、その子の可能性を引き出すのが教育である。まだ義務教育の中学生ではないか。北風より太陽である。
校則は生徒のためではなく、学校や生徒管理のための道具として利用されているのが実態だ。好ましくはないかもしれないが、幅広ズボンでだれに迷惑をかけるのか。もう少し大きな気持ちで生徒に接してはどうか。
【1992年】
「バイトの是非家庭が判断を」(92.7.24・朝日新聞「家庭欄」)
3日付本欄、匿名教師氏の「保護者も注意バイトの許可」に私も反論する。
氏はバイトをすることにメリットがあることを認めながらも、禁止されているバイトが友だちに見っか
り、「口止め料」を払い続けたあげく、学校に相談に来るケースがあることを例に、保護者に考えてほしいと言っているが、それは逆であろう。禁止になっているからこそ、そのような脅しが存在するのであり、隠れてする必要がなければ、脅されることもない。
バイトの是非は原則的には親や家庭が判断するζとであり、学校が一律に禁止することではない。危険や誘惑の心配からすベて禁止して遠さけるのは教育ではない。ことの善悪、価値判断などが自分でできる人間でなくてはならず、教師や親はそこに手を貸せばい。バイトは学校に届けるようにすれば十分である。
「どの教科書も〝準国定化〟に」(91.8.14・東京新聞「発言」)
6日付〝わかものの声〟「新科書検定内容は卑怯(ひきう)だ」(山崎貴博君)を読み、こんな高校生もいるのだ思い少し安心しました。
君の言う通り、もう教科書検定の名の下に検閲され、どの教科書も大差なく準国定されてしまっているのです。文部省自ら単に例であるといっているにもかかわら、例示された歴史上の人物すべての教科書に載りました。
これは不合格が怖いため、出版社が自己規制したひとつの例であり、政府は都合のよい教科書づくりを完全に手中にしています。
君の言う通り「日の丸] 「君が代」についでも、支持する自由と反対する自由が支持が認められなくてはなりません。
民主国家では他人に迷惑をかけず、法に反しない限り、自由を認められなければなりません。「日の丸」「君が代」を支持しないと誰か困るのですか?困るとしたらそれは、それを利用しようとしている国家権力です。一般社会で支持しなくても何も罰せられないのに、がくん学内では処罰までして強制することがなぜ許されるのでしょうか。
「特定教科書の強制は違法」(92.4.28・毎日新聞「みんなの広場」)
神戸市立工高の生徒が、宗教上の理由で剣道の実技を拒否したことに対し、学校側の退学処分を不服とし、生徒の両親が行政訴訟を起こした。生徒は準備体操の後、正座で見学し自主的にレポートを提出したが、認められなかったという。
宗教上の理由でなくても、そもそも武道などの言葉を復活し、格闘技である柔道や剣道を体育の必須科目にして強制する必要があるのか。バレーや水泳、陸上協議など他の種目があるのに、なぜ剣道が必須なのか。その根拠はどこにあるのか。
教育とはあらゆる可能性を持った子供たちの能力や、可能性を引き出し伸ばすのが目的であり、一定の価値観を押しつけたり、ましてや国や国家権力のために行うのではない。
教科選択は自由であり、決めた教科を強制するのは教育の自由に反し、私はこの行政訴訟は当然であり支持する。
「押しつけは『調教』だ」(92.6.8・朝日新聞「教育欄」)
1日付「福島の中学での丸刈り」記事で、元教師の突っ張っている外面だけにこだわるのは教育ではない」の発言は正論である。彼らは自分の存在を認めてほしいから、」突っ張っているんであり、教師の価値観の押しつければ反発するのは目に見えている。
「中学生らしい髪型」とは誰が判断するのか。一方的に押しつけるのは教育ではなく調教である。
生徒指導教諭の「第三者が、一般論で批判すべきではない。子どものために思わない教師はいないはずだ」には疑問がある。往々にして今の学校教育は教育委員会、学校や校長の立場を優先し、個々の生徒の立場を無視している。
「愛国心は強制するもおんではない 国の統制教育に強く抗議したい」
(92.11.28・東京新聞「ミラー」)
県立高校の創立だ念式典に来賓として出席した朝霞市長がが、そのあいさつの中で、「君が代を歌わぬ生徒は市職眞として採用しない]と述べたという。県高教組 が抗議しているが、常識を超えた発言であり、その原因は闇の統制教育にある。
国は教師の処分権まで行使し教育の場で日の丸・君が代を強制しているが、これは明らかに国による価値観の統一である。君が代・日の丸を否定して誰が困るのか。だれも困らないし、だれにも迷惑をかけない。困るのは、日の丸・君が代を利用しだい国家惟力だけである.,
内容{や程度の差こそあれ、心を持たない人はなかろう.それは外国人を合めそれぞれの人々の価値観の問題であり、愛国心とは芽生えるものであり、決して教えたり押しつけたりしてはならず、その間違いをわれわれは体験してきた。
あの仕略戦争も大東亜共栄圏、五国共和、、しして聖戦とさえ教え、そして、戦死し靖国神社に祭られることを名誉と教えたではないか。それにとどまらず、あの片道燃料しか持たせず特攻といsて、そして人間魚雷として、若者たちを無駄死にさせたのも愛国心であった。
私は日の丸が好きである。しかし、他人がそれを支持せず否定しても、私はいつこうに困らず構わない。なぜなら、それは私白身の心の問題である.その心の問題にまで国家権力が処分権までかざして実行を迫るのは、明らかに憲法第19条の思想および良心の自由」に反する。君が代・日の丸にはそれぞれの思いがあり、価侑観を強制してはならない。
いま教育は完全に「いつか来た道」を歩き始めている。教育とは何でも権力者(教師、学校、親、国家など)に従順に従う「イエスマン」をつくる場でも、多数や流れに逆らわない人間をつくる場でもない。
多数が常に正とは限らず、何でも多数決で決まるなら裁判所も政治倫理委員会もいらない。自己主張を認め多様な価値観を認める社会こそこ自由社会である。.
子どもたちが「あの時なぜ戦争に反対しなかつたの?」と聞けば、大人たちはそんなこと言える状況ではなかった」と答える。しかし、ある日突然白山のない杜会ができたのではない。否と言える時に言っておかないと、取り返しのつかないことになる。国は思想信条の自由を侵し、教育の場を価値観の統一の場に利用してはならず、それは違憲であり、私は国に強う抗議する。人は他人に迷惑をかけず、法に反しない限り最大限の自由を保障されなくてはならない。
「価値観強要の教育は間違い」(92.12.21・朝日新聞「埼玉版」)
朝霞市長が「君が代を歌わない生徒は市職員に採用しない」とう発言したことに批判が出ているが、今度は県議会で竹内教育庁が「歌わないように強要sることは絶対あってはならず、教師が退席した事実があれば厳正な処分が必要」と述べた(8日付「埼玉版」)。歌わせることは処分してまで強制できるが、反対の指導はいけないと言う。
教育は、与える側の学校や国家権力の価値観を押しつけ、都合のいい人間をつくる場ではない。受ける側が主人公であり、その要望に応じそれを満たすのが教育である。
君が代を歌わなくても、法律に違反するわけでも他人の迷惑をかけるわけでもない。価値観を押しつける教育の間違いは、戦前戦中に十分体験したことを忘れてはならない
【1993年】
「生徒に意見言う権利」(93.1.11・朝日新聞「教育欄」)
12月20日の匿名の千葉の高校生ヘ。学校を統廃合するのは、学校や教育委員会が、生徒より効率や費用などを取優先するからです。認められ、出世したいために、上からのいなりになります。
権力者は、学校の言いなりになり、自分でものを考え、判断しない人間を好みます。それに従わなければ、いじめ」にあう可能性もありますが、もっと勉強して、社会をよく知って下さい。廃校についで、皆さんが考え、意見を言うのは当然の権利です。
「4人の〝わかもののこえ〟に同感」(93.1.13・東京新聞「発言」)
4日付″わかものの声″に4人の投稿が載ったが、いずれも私が常に思っていることが書いてあり、うれしくなった。
「許そう、しかし、忘れまい」。そうです。侵略戦争の犠牲になった人たちが許してくれるというのに、日本の教育はそれを教えるどころか、「くさいものにふた」と隠そうとさえしているのです。
「『あいさつ』で信頼関係つくる」、-いま若い人の中にあいさつや返事がききちんできない人がいる。「相手に聞こえないあいさつや返事は、したうちに人らない」と、私はあえて大きな声で若い人にあいさつをしています。
「思いやりを見失っている」-そうです人にいちばん大切なのは、地位や名誉でもカネでもなく、思いやりと優しさを持つことで、これが人間としていばばん価値があるのです。
「禁止だけでは指導にならぬ」-そう教育とは、自分で価値判断や善悪を判断理解できる人間になるために、手を貸すのであり、価値観を押しつけたり勝手に判断して禁止するのは「.調教」です。
まだ、日本の若者に期待しても大丈夫のようです。東京新聞が毎週″わかものの声″を特集している音義が理解できる。
「『与える』教育過去の道招く」(93.4.15・朝日新聞「埼玉版」)
先月の地方版に「できたぞ!文部省未検定教科書」の記事が載ったが、入間向陽高校の生徒さんは素晴らしい体験をしたと思う。
いま教育は「検定済み教科書」によって「与える」教育になってしまっているが、教育とは彼らが実行したように与えられるものではなく、自分での能動的に勉強し、自らの考えで価値判断することが大切なのである。
新聞に従軍慰安婦、強制連行、えん罪、別件逮捕、代用監獄、靖国神社の公式参拝などのニュースが日常的に出るが、教科書にはない。検定済み教科書からは悲惨だからと「原爆の図」も削られ、企業名は必要ないと水俣病の「チッソ」の名も削られた。検定する側に都合のよい教科書しか認めないのである。
彼らが実行したような、自ら知る意欲こそ大事だと思う。一方的に与えるだけの教育は「いつか来た道」につながる。
「『いい父』ではなかった先生」(93.5.10・朝日新聞「埼玉版」)
家庭内暴力の経験がない者が言うのは無責任かもしれないが、4月26日付の茂手木さんの意見に異論をのべる。
親以上に子の心配をしてくれる人は普通いない。その信頼したい親に殺されるとは、彼の最後の「殺さないで!」の言葉を聞くまでもなく辛いことである。親は自分の命と引き換えても、子を守るべきではなかったのか。彼はそうなる前に、十分SOSの信号を出していたはずである。音楽をやりたいというのもその一つであろう。「東大卒のいい先生」である親の存在、」浦高から大学へのエリートコースを歩むことへの期待が、重荷になっていたふしはなかったのか。
「いい先生」だと何千人もの減刑嘆願署名が集まったが、結果から見れば「いい先生」でありつづけるために、一方で子が犠牲になってしまったことはないのか。「いい先生」の前に「いいお父さん」であってほしかったと思う。先生の代わりはいても父の代わりはない。
「価値観押しつけ、禁止や強制の教育に反対」(93.6.26・「組合新聞」)
今月の12日付本紙に「日の丸ペナルティー、教師から子どもへ拡大」が載った。君が代の指導に服さなければ、その処罰を教師から生徒にまで拡大するというものだ。
教育とはあくまで受ける側が主人公で、その求めや要望を満たすのが教育であり、決して与えるものではない。しかし、いま個性の尊重とは裏腹に、日本の教育は一方的に価値観を押しつける権力者側の思うままになる「イエスマン」を作る場となっている。
いろいろな価値観や考えを認める社会こそ民主社会であり、思想信条や良心の自由という「人の心」にまで介入する「日の丸・君が代」の強制は、憲法19条の「思想・良心の自由」に反する。
日の丸や君が代を認めないから愛国心が無いわけではなく、その表現や方法は各自違うのであり、それを強制する社会に「非国民」という言葉を思い出す。戦時中、国は大東亜共栄圏、五族共和、聖戦と価値観を統一強制し、それに反対する者は「非国民」と呼ばれ差別されたのである。
私は「君が代」は否定するが「日の丸」は好きであり、国旗として認めたい。しかし、それは私の心の問題であり、他人がそれを認めず否定しても私は一向に困らず、国や政府も困らないはずであり、困らないことを強制するのは権力側がそれを利用したいからである。
いま教育は与えるだけの一方通行となり、権力側は自主的な価値判断や行動を嫌い、校則の名の下に子供を縛り、バイトもバイクもダメと校則は「拘束」となり、最高裁は「バイク禁止の校則が法律に優先するのは違憲ではない」とまで認めたのである。
一方的に価値観を決め、禁止や強制するのが教育であろうか?いいなりになる人間ではなく、自分の考えや価値観で善悪や価値判断できる人間でなくてはならず、法に反せず他人に迷惑をかけないかぎり、自由は最大限尊重されなくてはならない。
住井すゑさんももう教育ではなく「調教」だという。われわれは国に自分の子の「調教」を依頼した覚えはない。また既に学校ではなく「教育工場」であるという人もいる。
つまり、おしゃかを出さず、同一規格の人間を大量生産する所ということである。だから今の学校は楽しくなく、結果として不登校やはみ出す生徒が増え、学校は荒れてくるのである。
教科書から残酷だからと「原爆の図」を削り、会社名は必要ないと「チッソ」の名を削り、子供達に真実を教えず、事実を隠した国の教科書検閲も最高裁は「検閲に当たらず合憲」だという。教育の一端を担っているのがこの教科書検閲(彼らは検定という)であることに違いない。
「入試にボランティア活動加味、反対」(93.12.21・毎日新聞「みんなの広場」)
十五日社会面に「時代の風景’93冬/内申書目当てにボランティア活動」の記事が載った(東京本社管内)が、ボランティアを評価の対象とするなら当然の帰結である。
ボランティアとは自分の意思で行動を起こすものであり、評価を求めて参加するものではなく、それならきちんと評価に合う賃金をもらうべきである。
評価目的なら不本意でイヤイヤその気がないのに参加する人も現れ、それはボランティアを受ける側にも、またそんな人と一緒にボランティアをさせられる人にもいい迷惑である。
こんなことを続けるなら本気でボランティアをしようとする多くの善意の組織や人に迷惑である。
このことによってボランティアそのものの評価や価値観が間違った方向にいきかねず、私は入試や入社にボランティア経験を加味することには反対である。
【1994年】
「公的夜間中学県内にもぜひ」(94.1.31・朝日新聞「埼玉版」)
年末に映画「学校」が公開され、十日付本紙教育欄でも夜間中学が取り上げられた。残念ながら埼玉に夜間中学はなく、善意の市民が川口で自主夜間中学を運営しながら公的設置茗要望しているが、一向に前進しない。
「あるはずのない、本来あってはならない夜間中学」。しかし、いろいろな理由で現実としてそれを必要としている人がいるのである。
勉強をしたい人たちにその場を与えるのが教育ではないのか。弱者に手を貸すことを理解することば、学力以上の最大の教育テーマではないのか。それを県はなぜ理解しないのか。
義務教育は国のためやエリー卜を作る場ではなく、生徒の可能性を見いだし引き出し、その人のためにその人の幸福を巌って行うものである。教育は、生徒が主人公であるζとを忘れていないだろうか?国や県は、教育の場を得られなかった(奪われた)人たちに
こそ教育の場を与える義務がある。私は「公的夜間中学の設置」を訴える。
「『日の丸・君が代』価値観の押しつけ」(94.4.23・「組合新聞」)
本紙4月16日付・2234号に「君が代・日の丸」の記事が載ったが、この「君が代・日の丸」論争にピリオドを打とうと法制化する議論があるが、そんなことでは解決しない。
この「君が代・日の丸」を、国歌・国旗として認めるか否かが問題なのではなく、それを学校などで処分までだして「強制すること」が問題なのであり、法制化すれぱ「法律で決まっているのだから」と更にその強制が徹底されるであろう。
これは、思想・信条と値観の問題であり、それを処分までして強制することは思想統制であり、むかし 天皇を誹謗したと処分され「不敬罰」と同じであり、「天皇」が「君が代・日の丸」」に置き換えられただけである。
今、憲法を改正する自由も天皇を無視することも、天皇制を否定する自由もあるのに、なに故「君が代・日の丸」をを無視すると処分らされなくてはならないのか。それは明らかに思想・信条の自由を侵し、価値観利なのである。
私は日の丸が好きであり国旗として認めたい。しかし、それを他人が認めなくても私は一向に困らない。なぜならそれは私自身の心の問題だからであり、それは各自の価値観の自由であり、その誰にも迷惑をかけない個人の心の問題にまで国家権力が処分までして強制すること明らかに価値観の強制であり許されない。
今の教育は教育ではなく、生徒の考えや自主性を尊重せず自分で物を考えずに、いいなりになる人間を造る「調教」となり、教師も自分の考えや発言をせず校長のいいなり、校長は教育委員会のいいなり、教育委員会は文部省のいいなりという状況である。なぜなら、正義を通すより体制に流される方が楽であり、なおかつ出世するためにも有利なのである。そんな連中に教育者の資格があるのだろうか。
故に教育は画-化し面白くなくなり、何のために学校ヘ行くのか、管理教育の中で学校ヘ行く価値観を見い出せず、学校や子供たちがおかしくなり登校拒否が増えている。
親は学校に頼りきらず自分の子をしっかり教育し、躾.ないととんでもない時 代が来て、取り返しのきかないことになる。
「教材まで検定は納得できない」(94.06.02・読売新聞「気流」)
本紙の報道によれば、高校の古典教科書にアイヌの口承叙事詩「ユーカラ」などを載せたところ、検定不合格になったという。「学習指導要領の古典の対象にそぐわない」との判断かららしい。
この教科書は、このほか六つの教材についても「指導要領のいう古典1の中身に合致せず、教材選択が不適切」との指導を受けたという。どういうものが古典か、またどのような教材を選ぶかについて文部省に決定する権限はないはずだ。
「こういうのが古典であり、このような教材ならいい」というのは検閲であり、そのような価値観の統一は過去の教育の過ちを再び繰り返すことにもつながりかねず、許されないことだ。
教育とは本来、国の都合で行うものではない。また多様な見方や価値観を認めない教育を民主教育とは呼べない。
しかも、文部省は「現時点では検定内容についてコメントできない」という無責任ぶり、到底納得できない。
「教育の場での査定全廃せよ」(94.6.29・東京新聞「発言」)
18日付〝発言〟「校長のボーナス査定に問題あり」に一言。
その問題点として、良い校長の価値判断は何か、点数稼ぎに走らないか、査定の内容が学内や父母に漏れる心配もあり、校長への指導は当然だが査定は生徒のためにならず金を絡ませる必要はない、という。
しかし、これは対象が校長ゆえに問題なのか。氏の心配は一般教師にもそのまま通用するのである。教師の査定はよくて、校長の査定はまずいといいうのだろうか。
査定は管理する側の価値判断でなされるのであり、裁判官、医師、教師などの専門職に査定を導入することは間違いである。
教育の場に査定や出世主義を導入するなら、教師たちは子どもの方を向かず校長や学校、教育委の方向を向くことは容易に想像がつき、それひゃ教育の統制と荒廃につながり非常に危険であり、教育の場での査定は全廃すべきである。
【1995年】
「教育の原点は障害者教育に」(95.2.8・東京新聞「発言」)
今は亡き教育者、林竹二の「障害者教育教育の原点である」という言葉を、私は固く信じている。
氏は国立宮城教育大学の初代学長までした人だが、定年退官後に奥様とともに各地の定時制高校や夜間中学、荒れた学校など講演して回り、初めて本当の教育を知ったと言い、「教育は変わること」と述懐された。
目の見えない子、足の動かない子(一人ひとり違う)たちの残された能力(機能)をいかに引き出すか(知的障害者を含め)が障害者教育である。
それは何も障害者だけのことではなく、健常者は最初から失われているものなく、無限のあらゆる可能性が潜み、その可燃性引き出すのが本当の教育であり、決して与えるものではなく、学ぶ側の要望や個性、能力に応じてそこに手を貸すことである、と教えていると私は思っている。
「講演ありがとうございます」(95.5.20・「教科書裁判ニュース」)
「教科書裁判ニュース」4月号の「週刊金曜日で知ったのですが、家永先生の講演会申し込まなくても入えますか」と電話したら私です。
当日は寒い雨模様の天気でしたが、休暇を取り杉並に出かけました。教育や教科書に関心を持つ者にとって、両なかった先生の組み合わせで講演をお聞きできることは、光栄でありめったにないことです。初めて目の前でお話をお聞きし、より信頼感を増し、権威や見てくれるないお二人の自信と信念の深さを改めて感じ「来てよかった」と思いました。
今の教育は明らかに検閲であり、教育は権力や行政の価値観を強制するのではなく、教育を受ける側が主人公であり、それぞれの子の個性の違いや価値観を認め、その能力可燃性を引き出すのが教育です。しかし、現実の学校は調教の場となり、職員会議に意志は無視され校長の権威だけで上意下達となり校長のな従順な羊となり、勤務評定により教師が査定されています。氏価値観を統一した教育が街で間違いであったことは、その歴史が証明しています。同じ過ちを繰り返さず、無限の可能性のある子どもたちに夢のある社会を保証するのは親や我々大人の責任です。
「30人学級なら教員数は適正」(95.07.31・毎日新聞「私もひとこと」)
二十四日付「がっこう解体新書」で、教員過剰になり教育学部は深刻な事態、との論説が載ったが、私は過剰とは思わない。
筆者が「早い話、四十人学級を三十人に減らせば、事情は一変する」と指摘する通りである。先進諸国で四十人もの学級は日本だけであり、生徒が減ってきたこの時期は学級生徒数を減らすいいチャンスである。
いじめや自殺、体罰が相次いでいるが、これは生徒が多すぎて目が届かず、信頼関係が築けないためであり、山の分校などでは発生しない。
ただ教師を減らすというような経済効率を教育に導入すべきではなく、ぜひ三十人学級の実現を目指すべきである。
「文部省は個性を育てる教育を」(95.8.26・東京新聞「発言」)
文部省はオウムやイジメの深刻化を心配し、心の教育として概算要求に1億円織り込んだという。今まで個性も自己判断も認めず、規格の中にはめ込み何でも言いなりになる人間を育てきたためである。そのため自己主張しない、できない、そして、価値観や善悪を自分で判断できない人間が増えてきたということである。
心の教育とは何をするのか?「こう思いなさい」「こういう価値観を持ちなさい」「こういう人間になりなさい」とても教えるのか、それなら今までと同じである。
なによりも個性や多様な価値観、そして自己主張を認め、判断力を養い行動に責任を持たせることである。今までの教育はなるべ自己主張させず、言いなりになる人間を育ててきたのである。
バイクやバイトも危険だから、誘惑や金遣いが荒くなるからと、危ないものはみんな禁止は楽ではあるが、それで自己判断は養えず育たないのである。
「国は大学運営に介入するな」(95.09.22・毎日新聞「みんなの広場」)
十八日に文部省の大学審議会組織運営部会が出した「大学教員任期制の提言」に反対する。
基礎研究などは短時間に結論が出るものでなく、学問はそれが直接実用化や製品、商業化の可能性などの評価で判断されるものではない。
日本は長い間基礎研究がおろそかになり、結果や可能性が目に見えるものが優遇されてきた。そのため、カメラでも特許侵害で米国企業に多額の和解金を払い、また、コンピューターの心臓である中央処理装置(CPU)やそれを動かすソフトの基本ソフトウエア(OS)は米国に握られているのである。
そして、身分の安定なくして学問の自由は保障され得ず、そのうえ、任期制は選別や差別に利用される可能性さえある。
大学の学問は結果で評価されるべきではなく、可能性を生かす場であり、国家権力が大学の組織や運営などに介入すべきではない。それは大学、学問の自由の危機である。
「信頼なければ教育は成り立たぬ」(95.12.26・毎日新聞「みんなの広場」)
広島県教委が小、中、高校生の居る全家庭に「いじめに苦しみ、学校に行きたくない子供たちには、登校は強制しません」という文書を配布するというが、緊急措置として支持する。ただこれは、親から子供に徹底しなくてはならない。それにしても、今まで学校や教師を絶対視させてきたのではないか。
死ぬ思いまでして行かなくてはならない学校などなく、そんな学校なら通う価値はない。その原因は学校側にあり、子供に問題がないことに、やっと気が付いたのである。
ただこれは緊急避難である。早急に原因を解決しなくてはならず、教師は生徒の言い分を聞き、教育委員会や学校側ではなく生徒の側に立ち、信頼を回復しなくてはならない。
教育は「教える」ことも大事だが、「個性や能力を伸ばすことに手を貸すこと」がもっと大事だ。信頼のないところに教育は存在し得ない。
【1996年】
「親 自 身 が 無 責 任」(96.01.10・毎日新聞「埼玉版」)
保育園児や幼稚園児を連れて老人ホームを訪ねたり、保育園と老人ホームを同じ建物に設置したりする例があります。世代や家族を超えた交流が少ない中、本当に良いことだと思います。
昔は町内に、うるさいおじいさん、おばあさん、そして怖いおじさんがいて、悪いことをすれば、他人の子供であっても怒鳴られたものです。しかし、今はうっかり注意すれば、にらみ返される。親自身が子育てに無責任で、子供をしっかり見ていない。だから、いじめに、加害者も被害者も気付かないのではないでしょうか。
「統合統合教育の良さ再確認」(96.1.29・埼玉新聞「ひろば」)
7日付本紙「近づいた学校500メートル」読み、改めて統合教育の素晴らしさを再確認した。宗亨君は歩行困難のため養護学校を進められたが、それでは友達もできないと近くの普通学級に帰りたかったため、歩行訓練をし学校まで500メートルの距離に一時間かかったが、頑張った今は時12分で行けるようになったという。
そして、毎日学校で待機していたお母さんの必要も少なくなり、用事のあるときはクラスは母親たちが変わって助けてくれた。
何もお母さんでなくてもクラスの仲間や教師たちが出来る範囲で手を貸せば、お母さんは必要ないかもしれずそれが本当の社会にあり教育ではなかろうか。
宗亨君と出会ったこの学校の生徒たちは幸せである。なぜなら障害や障害者に直接接し、理解を深めることが出来たからである。
「共に生きる」という言葉があるが、社会や障害に限らず色々な思想や価値観を持っている人がいることを認める社会こそ正常な社会なのである。宗亨君これからも頑張れ。
「相談員任せは教育の放棄だ」(96.04.22・朝日埼玉版「一筆交差点」)
県教委がいじめをなくそうと、「さわやか相談員」を五年計画で全中学校に配置するという記事を十一日付朝日新聞埼玉版で見た。だが、それで解決するのだろうか。
相談員の立場は「安心して子供たちが心を開ける人」というが、裏返せば子供たちが教師に心を開いていないことを示している。教師との信頼関係を立て直さないで、校外ならともかく校内に相談員を置き、教師に相談できない子供はそっちへ行けというのは、教育の放棄である。教師はプライドを捨てたのか。
面倒な子供は相談員にまかせ、教師は勉強だけ教えればいいのか。相談員にまかせず、教師みんなで子供のことを考えることが、もっと大事だと思う。
「学校成績はで『絶対評価』で」(96.7.17・東京新聞「発言」)
13日受験教育110当番に、高の娘さんが一学期の評価が「5」だと思っていたら「4」だったと親子で不満の相談があった。なぜそんなに他人の評価を気にしるのか。
数学や漢字の書き取りなど答えは一つのものならともかく、評価の価値観はそれぞれ違い、自分自身のために学ぶのであり、他人のつけた評価に一喜一憂することはなかろう。
ましてや翌日の110当番で返答があった通り、今の評価は絶対評価ではなく相対評価であり、周りと比べて何パーセントに範囲に入るかで評価され、いくらテストの成績が良くてもそれ以上の人が多ければ評価が下がるのである。そもそも,こんな周りと比べる相対評価が間違っているのであり、他人との比較や競争のために学ぶのではなく、絶対評価を採用すべきである。
勉強は自分の興味関心のあることを学べば楽しく、他人との比較などする必要などない。詩や小説を読んでも個々でで感じ方は違い感想の正解などないのであり、絵や音楽などは感性の問題であり評価すること自体間違いである。
他人の評価を気にしず、自分に自信を持てる勉強することが大事だと思う。
「『訪問教育』高校へ拡大急げ」(96.08.01・読売新聞「気流」)
病気や障害児に対する「訪問教育」を義務教育にとどめず、高校にまで拡大してほしいとの要望があるが、文部省は「時期尚早」と否定的であるという記事が教育面(22日)に載った。
憲法二六条には、すべての国民が「その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」とある。経済的、身体的理由で教育を受ける権利が奪われてはならない。その能力に応じ、本人が学ぶ意思がある限り、行政はその場を提供する義務がある。
先に完成した記録映画「地域をつむぐ」で、佐久総合病院の小梅分院長は「動けない患者がいるなら医師が家庭に出向き、訪問医療するのは当然です」と言っていた。
動けないことや障害を理由に学ぶ機会を奪われてはならず、それは義務教育にとどまらない。記事にもあったように、訪問教育を受けた子供たちは別人のように生き生きとする。「わずか二時間ですけど、四時間にも六時間にも値します。どれだけ感謝しているか」という家族の言葉が、訪問教育がどれだけ必要とされているかを教えてくれる。
学校を建てる必要もなく、教師を派遣するだけで済むのであり、文部省は時期尚早とせず、早急に取り組むべきである。
「群馬の赤石教諭に敬意を表します」(96.8.20・「教科書裁判ニュース」)
「教科書裁判ニュース」5月号に載った群馬県立工業高校の生徒会誌への教諭の寄稿文が、「教育活動として公の性格をもつ観点から見るとふさわしくない」と校の判断と職権で不掲になったことを起訴した赤石教諭の勇気と行動を高く評価したい。
発行責任者は校長にあると主張するが、掲載記事の価値観を校長に判断する権利はなく、学校内でも言論表現の自由は保証されなくてはならず、明らかに検閲であり部分子どもの権利が批准されたいま、時代錯誤の判断である。不満を持ちながらもなかなか提訴まで持ち込むことは、時間と費用がかかり勇気がいるが、誤った記憶を繰り返さないため提訴した赤石教諭に敬意を表します。
「障害者教育は教育の原点である」( ?)
今は亡き教育者、林竹二の「生涯教育は教育の原点である」という言葉を私は固く信じている。
国立宮城教育大学の初代学長までした人だが、定年退官後、奥様とともに各地の定時制高校や夜間中学、荒れた学校などを講演して周り、初めて「本当の教育を知った」と言い、「教育とは変わること」とも述懐された。
目の見えない子、足の動かない子(一人ひとり違う)、残された能力(機能)をいかに引き出すか(知的能力を含めて)が障害者教育である。
これは何も障害者だけのことではない。健常者は最初から失われたものはなく、無限のあらゆる可能性が潜んでいる。その可能性を引き出せるの本当の教育であり、決して与えるものではなく、学ぶ側の要望や個性、能力、に応じて、そこに手を貸すことである、と教えられていると私は思っている。
「アルバイトの一律禁止に反対」(96.8.23・「週刊金曜日」)
教員である成瀬浩一の投書に反論する。
「高校生が基礎学力を養うところであり、人生で大切なことは勝つことではなく努力することである」との主張に異論はないが、学ぶことや場所は学校だけが全てではない。
氏は学校での学習や行事に参加することが全てであり、バイトの目的や消費と決めつけ、自己や災害の危機もあり校則で禁止と主張するが、バイトは必ずしもデメリットばかりはなく、逆に学校では学べない社会のことを学ぶこともできるのである。
それは金の価値観だけでなく、客の理屈に合わない非難を受け謝罪したり、客の有難うの一言がどんなに嬉しかったりということを体験するのである。そして危機や事故が心配だからと避けるだけなら何ら解決しない、その危険は高校生だけではあるまい。
私は中学の時に新聞配達をしたが、今でも新聞奨学生はいるし、経済的理由からバイトする生徒もいる。
氏は学校として保護者の皆様に以下のことをお願いしますと5項目を挙げたが、学校としてではなく「私は」であり、教師の価値観は同じではなく氏の考えや価値観が学校代表するものではあるまい。
氏の5項目の1は「生徒手帳にアルバイト禁止してあるからダメ」とは、学校が一方的に決めた価値観を押しつけるのは民主主義ではなく、2の「親にバイトを許可なしないで」は本人の家族の責任で判断することであり結果責任は学校にはなく、3の「アルバイト」の語源は意味がなく、4の事故災害については前期のとおりであり、5の遅刻、早退、欠勤はバイトするだけのものではなく、また部活月参加については、今その行き過ぎが指摘され見直されている最中である。嫌なことを強制するから不参加でるのである。価値観の押しつけは教育ではなく、信頼関係がないから校則が必要となるのであり、信頼関係を校則置き換えることに無理があり、校則が無くても価値観や善悪が自己判断できる人間にならなくてはならない。
「許されない価値観への口出し」(96.09.23「市民じゃ~なる」9月号)
中国人を「マルタ(丸太)」と呼び、彼らを生きながらにして生体実験に利用した七三一部隊の実験用ネズミを、当時県内春日部周辺の農家がその生産飼育を引き受け軍に供給していたことを知った県立庄和高校の地理歴史研究部員が、その歴史の発掘をしていたことは既にテレビや新聞報道でも紹介され、その活動は『高校生が追うネズミ村と731部隊』(教育史料出版会)として出版もされた。
その集大成の報告の場として春日部で「七三一部隊展in春日部」が開催され部活動としては異例の県の後援を受けたものの、県教育委から留意事項として「小中学校に対し児童・生徒の参観を働きかけないよう」という指導(条件)が付けられていたことを八月一三日付朝日新聞が社会面に四段見出しで大きく伝えた。
その記事を読んだ多くの人たちが「なぜ!?」と思ったに違いなく、私もその一人である。高校生や大人たちが見ていいものを、なぜ「小中学生には見せてはならない」と言うのか。それほど悪いものならば、なぜ講演を引き受げたのか。それは後援を拒否することによっての批判をかわすためだったのか。
記事によれば、その理由を県教育は「県内で採用している小中学校の教科書の中には七三一部隊の記述はない」とうが、それは「教科書以外のことは教えてはならない」ということか、それほど教科書は絶対的なものなのか、その教科書の検定や採択権限を握っているのはいったい誰なのか。
社会では七三一部隊は多くの報道や出版がされ、その存在は常識であり、企画を見た子どもの「なぜ教科書に載っていないの?」との疑間の方が正面であり、また、この記事を読んだ一四歳の中学生が八月二七日付朝日新間の「声」欄に「戦争の事実は全部知らせて」と寄せた意見に教育委はどう答えるのか。
幸いにも生徒たちと本当の教育に理解ある校長が「制約は極めて異例」と撤回を求めたが、県教育委はその回答を留保しているという。教育委に「見ていいものと悪い(見せたくない)もの」の価値判断をする権限があるとでも思っているのか。それは価値観の強要つまり教育ではなく「調教」である。思想信条や価値観の自由への権力の介入は間違いであったことを過去の教育は証明しているのであり、県教育委は留保事項を撤回し学校・生徒たちに謝罪すべきである。
なお、この県教育委の対応に『731・南京虐殺等損害賠償請求弁護団』も、八月二三日に「子どもの権利条約」の「情報を受ける権利などにも反する」と県教育委に撤回を求める通告をした(八月二七日付朝日新聞「埼玉版」)ことを村け加えておく。
「勉強はいつでもできます」(96.10.6・東京新聞「発言」)
9月30日付″教育110番〟に18歳の高校中退の女性から「今から行けるか?」と高校を卒業したい相談がが載ったが、自分が勉強する気があればいつでも勉強はできるのです。
私が若いころ働きながら電気の専門学校の夜学に3年通い、ある電気の国家試験を取りました。解らないことやしたいことが次々と解明されていく勉強の面白さが忘れられず、今も当時の勉強のことはしっかり覚えています。
様は自分にやる気があるか否かであり、夜学や通信距離もあり、新聞や本を読むのも勉強で人間は一生勉強です。
「贈られた先生の定規」(96.10.30・東京新聞「発言スペシャル」)
東京・神田の今川小学校時代の黛先生である。
当時、母子家庭で生活保護受けながら貧しい借家住まい。母がお手伝い委をして暮らしていた一人っ子の私に、担任の黛先生は母の帰りの遅いの知り、できの悪い私に「家に帰っても一人だろ、勉強教えてやるから先生の家に来い」と言われた。
いやいや放課後、週に何回か秋葉原の駅から先生の家のある池袋まで山手線で通い、新婚(?)だった先生の家で、時には夕食をご馳走になった帰った。
一番いちばん嬉しかったのは、正三角形と直角三角形の黄ばんだ三角定規のセットを下さったことである。新品でなく、先生の使っていた三角定規を下さったことが、何か先生が自分を認めて下さったような気がし嬉しかった、
昨今なら「エコヒイキ」と大変であろう。否、今の学校や教師はできの悪い生徒に振り向いてくれないようである。
「教職員増で30人学級実現へ」(96.11.21・読売新聞「気流」)
義務教育の教職員充実を目指した第六次教職員配置改善計画に基づいて、文部省が来年度予算に要求している四千八百三十二人の増員を大蔵省が認めない方針を固めたというが、私は反対だ。行政改革、財政再建を否定するものではないが、教育に投資を惜しんではならない。
主要先進国のなかで一クラス四十人もの児童、生徒を抱えているのは日本ぐらいのものだろう。教育に何より大切なのは教師と児童、生徒の信頼関係であり、大規模校や多人数クラスはこれに反する。
山間部の学校や分校には、いじめや自殺はあまり見られない。これは少人数学級のために教師と子供、子供同士の信頼や友情が育ち、教師は子供一人ひとりに目が行き届き、家庭や親子関係まで知っているからではないか。
児童、生徒の名前と顔も一致しないような状態で本当の教育ができるのか疑問だ。子供が減少している今こそ三十人学級を実現し、教師と子供の信頼関係を取り戻すべきである。
「興味や関心が勉強の原動力」(96.11.24・東京新聞「ひろば」)
15日付″教育〟110当番に、高二の女子から「勉強『やる気』どうすれば」が載ったが勉強は「自分の関心や興味のあることを追及することである」と私思う。
若い彼、彼女たちが関心や興味がないわけはなく、小さい子はしっこのどうして?どうして?と聞いてくるではないか。これが進歩の根源であり、興味や関心がなくなったら、その人の進歩は終わりなのである。
それは年齢に関係なく、その気があれば一生勉強であり、自分の知りたいこと分からないことが学ぶことによって次々に解決していく学ぶ楽しを知ってほしいと思う。それには他人の価値や尺度、評価を気にしず、本当に自分の知りたいことや興味のあることを見つけることである。
「東大医学部の『面接』導入に賛成」(96.11.30.・東京新聞「発言」)
東大医学部が二次試験受験者全員に「面接」を導入する方針を決めたことを支持する。
今まであらゆる面で学力、成績という物差しが最優先に使われてきたため。、学ぶ後も、何よりも、偏差値・学力を優先で、人間性も、体力も二の次という状況であった。とくに医師の仕事は学力以上に人間性が必要であり、学力優秀者が医師に向いていると限らないのである。、
思いやりや優しさなど、人の心が分からずによる医療ができるわけはなく、怪我や病だけを診るるのではなく、本来、家族関係や環境さえ知らなくてはならないのである。
面接の実施にはかなりの人出と時間が必要であろうが決して無駄ではあるまい。なぜなら、教育を経済の物差しである「効率」で測ること自体間違いである。採点がが楽だからと人の命預かる医師の国家試験が「マークシート方式」であることも改善すべきである。
【1997年】
「教育は調教であってはならない」(97.01.13「市民じゃ~なる」1月号)
前号の荒吐に掲載された匿名氏の「一律平等教育に一石を」に同感である。
投書にはご子息とその友人の学校での出来事が具体的に書かれていたが、結局は学校が個人や個性より全体や学校の立場を優先する結果であろう。
体育の苦手な子、絵や音楽の好きな子、数学や英語の得意な子などそれぞれの個性を認めず、学校は教える側の価値観を強制し一律に同じことを教え、同じ人間を大量生産する調教の場となり、これを作家の鎌田慧は「教育工場」と言っている。
学校は子どもの評価を数字でしかも相対評価をしているが、勉強は他人との比較や競争をするために学ぶものではない。
小説家と音楽家、数学の先生と英語の先生とどちらが偉いと比較できないのと同じであり、それぞれ個性と無限の可能性がある子どもたちを数字で相対評価し決めつけることにより可能性の芽を摘むような教育は間違っている。
体育が苦手でパソコンが得意であって何故いけないのか。嫌なことを強要すること自体問題であり、そもそも勉強の科目や内容を国が決めることが間違いであり、国のための教育ではなくその子のための教育であり、その子の興味やりたいことに対し可能性を伸ばすため、その要望や求めに応じ手を貸すのが教育であり教育は与えるものではなく、ましてや「これだけの科目をこれだけこの範囲で教えてやる」などというのは大きな間違いである。
匿名氏の主張のように皆に同じことや価値観を教え込むのではなく、その子のやりたいことや可能性の芽を伸ばすことこそ教育であり、私は読み書きができ簡単な計算ができれば後は「自分の好きなことを一生懸命やること」が勉強と思っている。教育はそこに手を貸すだけでいいのである。
「『飛び級』では人間性を失う」(97.02.21・朝日新聞「声」)
数学や物理で優れた才能を示す高校生を二年終了時点で大学入学させる中央教育審議会の「飛び級」提言に、日本数学会が「早期の大学入学より、人間としての知識・教養のバランスの取れた成長が大切」と崇高な理想を求め反対したことを高く評価する。
みんなに「同じことを教え、同じ人間をつくる」のが教育ではないというのはよくわかるが、いくら才能があろうと人としての知識・教養の有無が「人」としての価値を問われるのであり、いまその知育偏重の教育こそ問われているのである。
国立医大を出ても善悪の区別もつかずにオウムに走った若者、エリートコースに乗り、事務次官まで登りつめても悪を働く高級官僚、学力は人間性に優先するものではないのである。
優秀な人間の芽を摘むことなくその能力を伸ばすことこそ教育ではあるが、「専門バカ」では困るのである。
一年早く大学に入ることがそんなに大事なことだろうか。友達もなく友と遊ぶこともなくただ学問をするだけなら人間性を失うであろう。
「夜間中学の拡充を」(97.06.14・毎日新聞「総合面」)
義務教育未修了者が放置されていることに憤りを感じている。首都圏では埼玉県だけに夜間中学がなく、いろいろな事情で学齢期に学ぶ機会を逸した人たちが毎年都内の公立夜間中学へ入学している。
「埼玉に夜間中学を作る会」では週2回ボランティアで「川口自主夜間中学」を開き、夜間中学の設置運動をしているが、行政は関心を示さない。
義務教育は社会で生きていくために必要最小限の教育であり、「人数が少ないから」「高齢だから」と、行政が義務教育未修了者を放置するのは、明らかに憲法の趣旨に反する。
いま、子供の数が減り、空き教室もある。その教室を開放し、何人かの教師をつければ夜間中学は実現するのである。
「義務教育修了者を放置する行政の怠慢」(97.11.14・「週刊金曜日」)
首都圏で唯一公立夜間中学校がない埼玉県で、設立運動続けてきた「埼玉に夜間中学をつくる会」(以下、「作る会」)が残念ながらまだ目的が達成できずに結成12周年を迎え、11月2日に川口市で支援者など72人が参加した記念集会が開かれた。
第一1部では、野川義秋代表の経過報告のほか、「作る会」がボランティアで週2回開いている川口夜間中学(以下、「自主夜中」)の生徒、講師、そして、現在定時制高校・短大に進学している「自主夜中」立出身者が現状を報告。夜間中学設立の要請に対して、埼玉県や川口市は「小中学校の設立は市町村の権限た。家だけの問題ではない」とそれぞれ責任を押し付けをしているだけで、義務教育を受ける権利を無視した怠慢な行政の実態が明らかにされた。第2部でギター、パンフルートの演奏などが「自主夜中」で日本語を学ぶブラジル人生徒と共に行われた。
現在も「作る会」が県や市の教育長に対、面会の要請しているが誠意を感じられない対応が続いている。毎年、県内の義務教育修了者の20人前後が遠く都内の公立夜間中学に通っていることを行政は知りながら無視してるのである。人数や理由の如何を問わず「義務教育を受ける権利」を保障するためにも、1日も早い公立夜間中学設置が望まれている。集会では、東京都の世話にならなくても県内で勉強できるよう公立中学設立に、更なる努力を続けることが改めて確認された。
「胸がいっぱいになる二十四の瞳」(97.11.25・東京新聞「「発言」」)
私に1番大きな影響を与えた映画は子供の頃に見た高峰秀子の「二十四に瞳」である。
貧しい環境のなかで育つ子どもたち、生徒の1人に妹が生まれたもの母親に次いで赤ちゃんも無くなり、「こんな貧しい家に生まれて何でいいことがありましょうか。死んだ方が赤ん坊のため」と泣く父親。学校を辞め奉公に出される子、結核に侵され家族さえ寄り付かないの教え子を尋ねる大石先生。思い出すだけで胸がいっぱいになります。
やがて純粋な子供たちや教育によって軍国少年に仕立てられ、先生は疑問を抱き教師を辞めるが、「戦死したら靖国の母になえるんじゃないか。お母さんは弱虫だ」と言われ、「弱虫でも、いくじなしでもいい、お母さんはただお前たちはかわいいだけだ」と答える先生。戦争が終わった時、大石先生は夫と娘を亡くしていた。
平和が戻り、生徒がまた昔の分校に戻ることになり、教え子が同級会を開いてくれたが、男子生徒は2人を残して戦死、その一人も失明していた。しかし、彼の目には、昔みんなで先生宅を訪ねた時に、海岸で撮った写真が見えるのである。今でも多くの人に見てもらいたい映画である。
【1998年】
「校長処分に異議あり」(98.4.3・「週刊金曜日」)
神戸の市立中学校の校長がストリップを視に行ったことが報道され、教育長が校長を処分したが、法や規則に反しない行動をなぜ処分できるのか。
校長であれ裁判官であれ聖人ではなく、色気も性欲もある。同じ人の子であり「聖人でであってほしい」との願望を強要することができない。逆に「聖人視」すりことこそ危険である。
生徒の親や他の大人たちはストリップを観に行ったことないのか?「校長だから処分」は明らかに差別である。マスコミが話題の校長だからとその「プライバシー」を報道する姿勢も問題だが、法的にきちんと自主判断せず、その報道に引きずられ、校長を処分した教育委の自主性のなさにも呆れる。これは明らかに法の下の平等に反し不当である。
校長でなければ、また卒業式の日でなければ問題ないのか?そうではあるまい、法治国家ならプライベートタイムの、しかも、何の法や規制に反しない行動を処分することは違法である。
この校長の行動動をどう見るかは、その事実を知った周りや社会の人たち判断評価することであり、そこに社会的批判があったとしても、それを教育委が勝手に判断し法に則らずに処分する権限はなく、常識や多数決での処分は違法であり民主主義に反する。非常に危険なことである。
【1999年】
「プールの安全管理徹底して」(99.08.05・読売新聞「気流」)
東京・青梅市の小学校のプールで、小学五年生の女の子が、給排水用の循環口に体の一部がはまり、でき死する事故が起きた。このような事故が繰り返されることに憤りを感じる。
以前から同様の事故が起きていたため、循環口の網が外れないようにカギをかけるなどの防止策が取られてきたはずなのに、この小学校のプールの管理者は、いったい何をしていたのだろうか。安全点検は何よりの基本ではないのか。
学校も夏休みに入り、本格的なプールの季節を迎えている。関係者の再度の安全点検の徹底を求めたい。
自動車内に放置された幼児が、脱水症状などで亡くなる事故も繰り返されている。親や大人の無責任さのために、幼い命が失われる事故があまりにも多い。大人は、子供たちの安全を守っているのだという自覚をもっと持つべきだ。
【2000年】
「上意下達はなど企業論理」(00.3.10・「比企丘陵から」)
文部省は。新年度に「学校教育法」の施行職改め(1月21日付・毎日)は、職員会議は「校長が主謀するもの」と明記し、職員会議より校長意志が優先するよう改悪したことに抗議する!
文部省は教育と調教、 学校と企業の違いを分かっていない。日の丸・君が代の強制に続いて、今度は学校の意思決定も上意下達だというのか!
言うまでもなく学校はは教育の場であり調教の場ではなく、そして、学校は上意下達の企業ではなく、上部の価値観や意志決定がを部下に徹底する場でもなく、自分で考え、判断できる人間になるための手助けの場である。
また、教員資格がなくても校長や教頭に登用したり、学校運営に「学校評議会」を導入するというが、その人選を誰がするのか。文部省に電話で聞いたところ、校長が推薦し教育委員会の承認するという、つまお手盛り人事である。
それほど民意を反映させたいなら「お手盛り人事」でなく、教育委員そのものを以前のように公選制にすべきである。職員会議の決定より行政が選んだたった一人の校長の判断が、しかも、の現に生徒と心を通わせてないものの判断が優先される組織なら、到底民主的な組織とは言えないし、子供の心とも遠く隔たってしまう学校運営がなされてしまうだけである。
「『来た道を戻る』教育改革は不要」(00.8.3・東京新聞「発言」)
首相の諮問機関である「教育改革国民会議」の教育基本法の改正を認める提案に反対する教育基本法は戦前・戦中の国家主義・皇民思想、そして、個人より国や組織を優先した過ちの反省から生まれたのである。
「将来的に満18歳のすべての国民に1年間の奉仕期間を設定する」などは言語道断であり、私の私はこの提言を読み、「奉仕」の中には兵役義務も入り徴兵制度につながる可能性を見抜かなくてはならないと思う。
また教師の評価によっては転職や免職も検討するというのは身分の不安定を意味し、「ひらめ教師(上ばかり見る)が増える結果を招き、教育を受ける側でなく、行政に評価される教師が増える事をを意味する。
教育は求められるもの与え、受ける側が判断・評価すべきである。なぜなら教育がそれを受ける側のために存在するのであり、権力の都合の良い人間を作るための手段ではない。
さらに飛び級を認めることはエリート教育の走ることを促し、まして、センター試験を「学習到達度試験」と位置付け標準の物差しにするとは、批判された「偏差値」の復活である。評価にはいろいろな見方や物差しがあってよく、個性を認めず一つの物差しで人間学や習を測ること間違いである。
今年の大検志願者が2万人を超え過去最低になったことも、この教育の統制、画一化を批判した数字であり教育の価値観の多様性を求めている結果である。
組織、団体より個人尊重の社会こそ民主社会であり、教科書の「社会科」を公民に変え、社会や市民という言葉を嫌い、国民・国家の言葉が優先する公優先の社会は危険であり、それは「いつか来た道」を歩き出していることに気づいてほしい。
「行政の夜間中学『無視』に憤慨」(00.9.15・東京新聞「発言」)
「埼玉に夜間中国を作る会」の15周年集会が浦和市で開かれ参加した。席上、今年も25人が埼玉県に夜間中学がないため、都内の公立夜間中学にお世話になったことが報告された。
集会に出席要請された埼玉県と川口市の教育委員会からは誰も参加せず、パネルディスカッションの席は空席のままであった。
義務教育の「義務」は親や行政に子どもに対して教育の機会を与える義務を示す。子供本人には教育を受ける権利がある。そして、本人に学ぶ意志がある限り、人数や学齢に関係なく義務教育を受ける「権利」が継続するのである。
多くの場合、義務教育未終了は本人の責任ではない。簡単な計算や読み書きができないことが、本人にはどんなに辛いことか行政は理解するべきである。
子供が減って生じた空き教室を利用して、数人の教師を手配すれば夜間中学が実現可能である。弱者救済こそ行政の使命である。
「責任は両親にあると思うが」(00.11.14・東京新聞「発言」)
有名女優の子供の不祥事について責任が誰にあるか議論されているが、私は両親の責任だと思う。子供は両親の所有物だけでなく、明日を築く社会の共有財産である。躾や教育には学校や社会も責任があるが、最終的には親の責任であり社会や他人のせいにしても解決しない。
子育ての主役は子供を産み乳を与えることのできる母親である。母親が仕事を持つか否かは夫婦の価値観である。子の年齢にもよるが母親が身近にいる時間が短いことは子育てに影響がないわけはない。母親の頑張っている姿に感動することもあれば、寂しい思いをすることもある。
子育ては命がけの真剣勝負である。子育てには我慢が必要であり、自己犠牲なくして子育てが出来ない。仕事は後日再開できても、子育てや人生おわやり直しがきかない。
「幼児は不可避 ゲーム、テレビの影響」(00.12.7・毎日新聞「みんなの広場」)
11月30日本欄「ゲームに罪はない、問題は『しつけ』」に異論を述べる。
幼小児童はまだ判断力が乏しい。テレビやマンガ、ゲームなどで連日暴力シーンや殺人画像を見ていれば影響を受けないわけはない。現にテレビアニメのまねをし、外国では子供がビルから飛び降りた。子供は親や周りの人や状況をまねして育つ。それはいいことも悪いこともまねする。子を見れば親が分かる、とも言う。
判断力の乏しい子供は仮想の世界と現実の世界が近付く可能性があり、最近は表現もリアルになり、時には大人でさえ引き込まれそうになる場合さえある。
刃物や銃を持てば使ってみたくなり、殺人シーンばかり見ていれば「やってみたくなった」と罪を犯した少年もいた。何でも自由と金もうけだけではなく、大人や社会は子供への影響を考慮し、子供を保護する義務がある。
◆教育には何よりも「信頼関係」が大切です(芹沢昇雄、埼玉県比企郡、会社員、59歳)
医療や教育など仕事の対象が人間である仕事は、信頼関係がなくては成り立たない、或いは困難だと思います。
茶髪が問題になり、校内で「(地毛)証明書」の携帯が必要などという場所は教育の場でも学校でもあり得ないと思います。よく胸に「名札」を付けさせている学校もありますが、教師が生徒の名前と顔が一致しない様で教育が出来るのでしょうか?、そんな処に到底信頼関係が存在するとは思えません。
それは大規模校の弊害であり、効率ががいいと統廃合することがいいとは限りません。「効率」は経済を計る物差しであり、教育を計る物差しにはなり得ず、40人学級より30人学級の方がベターであるのは当然であり、教育を「効率」で計ってはなりません。
同様に担任ではなくても他クラスの生徒も教師は凡その情況はつかんでいるべきで、どの生徒が地毛で茶髪かくらい記憶でき担任から伝える事もできるであろう。それが出来ないとしたら、学校規模(生徒)が大きすぎ目が届く範囲を超え無理があるということです。
冒頭にも申した通り教育には何よりも「信頼関係」が必要で、まず生徒の「茶髪が地毛」との主張を「嘘だろう」ではなく信じてやることです。最初から疑うのは教育ではなく、それは「警察」の仕事です。
辛くても裏切られても子供や生徒を信じてやることです。私はまた「万引きで捕まった」と嘆く、教師をしている愚息に、その生徒に「裏切られても裏切られても信じてやれ」言ってやりました。ただし信じてやることと、悪いことを叱ることは別であり、叱る時はマジで本気にしっかり叱ることです。
【2001年】
「国旗国歌拒否の教師処分、許せぬ」(01.04.03・毎日新聞「みんなの広場」)
3月29日本欄「国歌国旗への過剰な反対避けよ」に異論がある。教師や父母が日の丸・君が代への反対を行動で示すことが、なぜ「過剰な反対」なのか。そして、それは生徒たちの意思ではないと言うがそうだろうか?
日の丸・君が代を拒否した教師を処分することこそ過剰反応である。国旗国歌を多数決で決めることに異存はないが、その「価値観」の強制は民主主義に反し、日の丸・君が代の拒否で処分されることは許せない。
そして、児童生徒たちはそれに反した教師が処分されれば「悪いこと」と思い、その価値観を一方的に強制されることになる。
各地の学校や生徒たちが疑問を持ち行動していることも事実であり、国や学校が価値観を強制することは許され、反対は許さないとはまさにファッショである。
あの戦前・戦中の誤った価値観の強制が、その後、いかなる悲劇を生んだかは論をまつまでもない。悲劇を繰り返してはならない。
「許されない『歴史の歪曲』、作る会教科書は検定を通すな」(01.5.20・「比企丘陵から」)
「新しい力士をつくる会」(会長・西尾幹二・電気通信大教授)の指導で編集され、フジ・サンケイグループの芙蓉社から出版予定の中学歴史教科書が、教科書検定で指摘されたすべての修正意見を受け入れ、検定に合格する模様であることに危惧を感じています。
この教科書編集発行には多くの知識人や市民からも批判を受け、中国や韓国の反発が出ていることに右翼や自民党などから「内政干渉だ」と反発が」出ていますがそうでしょうか。
これは単に他国の政治に口を挟んでいるのでありません。批判している中国や韓国などは侵略戦争や虐殺の被害当事者なのです。
戦前・戦中の教科書から抜けきらない人たちは侵略戦争だったことさえ否定し、侵略戦争という人を「自虐史」と反論しますが、辛くとも事実は事実と認めなくてはなりません。私たち或いは祖先が犯した犯した過ちを認め、あぜその様な過ちに陥ったかを学ぶことが歴史を学ぶことであり、二度と過ちを犯さない様にすることが歴史からなら学ぶことではないでしょうか。
反論者たちは日本がアジアの国々を「列強からから解放した」とさえ発言していますが、それじゃその戦争は誰に依頼されたのでしょうか。なぜ中国の人達が反抗したのでしょうか、日本語を強制し、名前を変えさせ、強制連行・強制労働、従軍慰安婦の強制などがどうして起こったのでしょうか。
当時、中国や韓国の人たちが日本に一体何をしたというのでしょうか。到底「防衛」など言えず頼まれもしないのに、傀儡政権を作りた民族を制圧した政治や軍事行動が侵略でなくて何でしょうか。
一方的に喧嘩を仕掛け、これを悪くないというなら、反抗し、批判されるのは当然であり、内政干渉などと言うのものでありません。
「新しい歴史教科書の採用は差別」(01.08.17・毎日新聞「みんなの広場」)
「新しい歴史教科書をつくる会」が主導した教科書を東京都と愛媛県の教育委員会が養護学校用に採択を決めた。
普通学級でほとんど採択されない教科書をあえて養護学校用に採択するのは差別ではないだろうか。
そこには何でも構わないから、採択の実績を残すという意思が見え見えである。養護学校の生徒を犠牲にしていいのだろうか。
この結果は養護学校の教科書採択権が都道府県教委にあることを示している。教科書採択さえこの通りである。教育の集約、統制がいかなる結果になるかが分かる。
都道府県の教育委員は知事に指名権がある。その影響を受けてメンバーに多様性が欠けていることを表している。たった数人の教育委員で本当に選択していいのだろうか。
教育は行うほうではなく、教育を受ける児童、生徒が主体である。「これで教えるではなく、これで教えて」という姿が本来である。より多くの人たちの検討結果から選択されるべきである。
「民族侮辱の歴史を隠すな」(01.8.20・「市民じゃ~なる」)
「新しい歴史をつくる会(作る会)」の教科書が検定通過したことに危惧を抱いていた中国や韓国からの要望に、読売新聞は5月9日付社説で「韓国の修正要求は内政干渉だ」と掲げたが、そうでしょうか?
それは、日本の内政に干渉しているのでありません。侵略戦争の犠牲・被害者として日本が「侵略でなかった。間違いでなかった。謝罪の必要ない」という態度をとるなら、被害者として当然の反論です。
また、「作る会」の理事で学習院大教授の多加雄氏は朝日新聞の5月14日付『私の視点』で、韓国の要求は自分たちの書いて欲しいように書いて欲しいという指摘である」と発言、さらに、それを認めれば「事前に韓国政府の意向を汲まなけれならなくなるであろう」と極端な発言をしましたが、韓国や中国は具体的な問題箇所を指摘しているのであり、彼がそれに答えるべきです。
この問題は戦前の韓国併合や植民地政策、日中戦争を含む15年戦争など多くの加害者と侵略を認めるか否かの問題で、この教科書には「植民地」や「朝鮮総督府」の単語さえ本文になく(いらない!『神の国』歴史の・公民教科書・明石書店)加害責任や侵略と認めないこじつけに問題があります。
あの戦争はその戦争は天皇のためとして大東亜共栄圏、八紘一宇とアジア支配をもくろんでいたことは明白であり、植民地からの開放などとの言い訳は到底通りません。
そして、氏はドイツがポーランドなど周辺国と強調して歴史教科書編纂していることにも「一見もらしい主張だが・・・」と批判しますが、ドイツで出来ることが日本でなぜ出来ないのでしょうか。
それは歴史や認識の違いでなく、彼らのように反省と謝罪の気持ちがないからであり、自虐史であろうと不利であろうと事実を隠ぺいすることは許されず、歴史はその過去から学び現在や将来に生かすため学ぶのです
加害側がこのような態度を取る限り、被害者側は決して過去を忘れず、世界中から喝采を浴びたワイツゼッカー独元大統領の「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目となる」との言葉は、そのまま日本への教訓なのです。
「作る会」の教科書の具体的問題に触れれば、東京大空襲の無差別攻撃を「国際法違反」と指摘する一方で、自衛隊が中国に責任処理に出かけた毒ガス・細菌兵器に限らず、南京や平頂山(私は現地「遺骨館」を訪ねた)などの市民大量虐殺、「中国帰還者連絡会」など多くの元軍人が証言する奪い尽くし、焼き尽くし、殺し尽くしの「三光作戦」、731部隊の生態実験、他にも強制連行・強制労働そして強制され慰安婦問題などもこの教科書は言及してないとのことですが、これらは「国際法違反」でないのでしょうか。彼らの教科書は目的を持った余りにも恣意的に編集した教科書であることが明白です。
他にも日本語強制や創氏改名、天皇崇拝などを強制した事実、この民族を侮辱した話ありませんがこれらものでないとのこと。おし立場が逆だったら相手側の「歴史認識の違い」で彼らは納得するのでしょうか?
また、現代史に欠かせない「関東大震災」が載っていないのは、これを載せれば警察官という公権力が関与した朝鮮人虐殺に触れないわけにいかず意識的に外したに違いありません。
このような「作る会」の教科書は歴史認識の違いでなく、恣意的に作られて教科書であり子供の影響考えれば到底採択には値しません。
最後にこの「作る会」の教科書採択に向けて、他社の教科書批判・攻撃、自らの教科書の売り込み・採択運動が「公正取引法違反」と高嶋伸欣、上杉聡両氏が1、2、3月と3度の告発をしていますが、私のその経過問い合わせに公取委は「秘守義務」を理由に一切答えませんでしたが、公取委は支給結論を出す義務があります。
【2002年】
「教育は誰のもの?」(02.12.15「市民じゃ~なる」)
いま公立高校の学区制の緩和や廃止が進みつつあるが、これは教育の二極分化が進み非常に危険である。
その緩和、廃止の理由に「生徒の選択肢を増やすため」などの理由を示すが、その一方で学校間の競争促進が目的あることも明言しているが、これは教育の目的を理解していない。
教育とは個々の生徒たちのためのもので競争や学校のためではなく、もともと権力者は教育を権力を握る者とそれを支援する者だけのものいにしておきたく、市民に教育を与え人権だの権利だのと言って欲しくなく、政治や社会に関心を持たず面白可笑しく暮らしていて欲しいのである。その証拠は歴史が示し、普通教育や女子教育が普及や普通選挙権が与えられたのはそれほど昔ではない。
教育が学校間の競争に走れば、校長や学校は個々の生徒を無視し、全体としての学校のレベルを上げることに熱中し、個人も個性も尊重されず生徒より学校という組織が優先することになる。その結果、学校は俗に言うできる学校、ダメな学校という二極分化が進むであろう。そして文部省や教育委員会はその出来る学校を優先し、ダメな学校は見捨てられることになる。
しかし、学問は競争ではなくそれぞれの興味や可能性を伸ばすことであり、それは暗記や記憶力だけではなく考え出す発想も大事であり、日本の様に同一人間を作ろうとす
る教育は「調教」であり個性のある発想は起きずらく、成績のいい人間が必ずしも良い研究成果を果たすとは限らないのである。
ノーベル科学賞を受賞した野依教授は大学時代の成績表を公開し劣等生だったと卑下したが、大事なのは記憶ではなく基盤である基礎学問の下での発想や応用、アイディアー注意力等であり知識ではなく知恵が必要なのであり、記憶や横並びの教育はと共に教育の二極分化を心配する。
【2003年】
「障害児も自分で学校を選びたい」(03.01.08・読売新聞「気流」)
障害のあるすべての児童・生徒が普通学級に在籍できるようにするため、埼玉県がその制度作りの検討に乗り出したという。法令に規定のない“二重学籍”を容認する国内でも初めての試みというが、障害児の学習環境の選択肢を広げるという構想を支持したい。
市町村教委はこれまで、文部科学省が示す「就学基準」に基づき、子供の障害の状況に応じて就学先を指定してきた。このため障害のある児童・生徒が普通学級に通うことは、実際には困難な場合が多かった。
だが子供にとっては、障害に応じた設備が整っている養護学校などに通いたいと考える場合もあれば、普通学級で学びたいと考える場合もあるはずだ。
市町村のアドバイスはあってもいいが、最終的な選択には、あくまでも本人と保護者の判断や希望が優先されるべきだと思う。障害児がもっと普通学級に通えるようになれば、同じ教室で授業を受ける子供たちも多くのことを学べると思う。
【2006年】
「教基法改悪を許すな!」(06.5.12・「週刊金曜日」)
処分までして「日の丸・君が代」への起立斉唱を強制している都教委が、今度は職員会議での「挙手や採決」の禁止を指示したというが、開いた口が塞がらない。都議会では採決をしないのだろうか。民主主義を教える場で、こんなバカな指示がされている国が他にあるだろうか。
教育が上意下達でいいわけはなく、自主的な判断をせず何も考えない教師や生徒を作ろうとしている。「教師の質が落ちてる」との批判もあるが、教委や権力がイエスマン教師を増やした結果であろう。
一方で政府は「教基法」の改悪を画策し、その法案には現行法1条の目的「心身共に健康な国民の育成」前段の、「自主的精神に充ちた」の部分を削除し、国のための教育としようとしている。
また、現行法の前文と1条に在る「個人」の言葉が削除されたのにみならず、新たに「公民」という言葉が14条に出てくる。これは社会科を「公民」と置き換えたように、権力は「社会や市民」と言う言葉を嫌い、これを「国、公民、国民」と置き換える思想と同じ個より公を優先する教育を目指すものである。しかも、新たに「家庭教育」にまで口を挟んでいるのである。
教育はいったい誰のためのものか、言うまでもなく教育を受ける生徒たちのためであり、教委や権力の都合のよい人間を作る場ではない。彼らは国が在って国民があると考えるが、田中正造は「民が在って国が在る」と言っていた。
教育は100年の計であり、国の行方に重大な影響がある教基法について、与党だけの議論と多数決で決めていいわけはない。法案の上程を阻止しよう。
【2008年】
「『入学式』外しに怒り!」(『創』08.6月号)
千葉県八千代市の県立八千代西高校で入学金未納の新入生二人を入学式に出席させず待機させたという。学校も県教育委も「やむを得ない」とのコメントに怒りを感じ,
双方に抗議の電話を入れたが「入学金納入が入学の条件」と型どおりの答弁であった。
この二人の生徒の心に一生傷が残るであろう。また、校内全ての生徒もこれを知ることになる。これは校長でも教育者でもなく「経営者」である。もし、承知で不払いなら幾らでも後で対処でき、生徒の心の傷より「金」を心配する場所は学校でも教育でもない!
一人は11時ころに全額9万円を、もう一人は夕方に都合のついた2万を持参し入学が許可されたという。子に承知で形見の狭い思いをさせる親が何処にいるであろうか、気の毒でならない。親御さんが「サラ金」で借りたのでなければよいが。学校、教委に猛省を促す!
「学 校 選 択 制 見 直 し 拍 手」(08.10.5・東京新聞「発言」)
東京都江東区が、小学校の学校選択制を見直すという(9月26日付1面)。この勇断に拍手を贈る。
幼少年教育は、学校と親、地域とで、はぐくむものである。いま一番欠けていると言われているのが、この地域のコミュニケーション。選択制は、子を通しての地域の一体化を損なわせる。学校が違えば、帰宅しても友達と遊ぶこともなくなり、親の交流も少なくなるからだ。
それでなくてても、いま子どもたちは、塾通いやゲームなどで、外で友達と遊ぶ機会が少なく、人付き合いの苦手な子や、身勝手で自己規制できない子が増えている。教育とは競争でもなく、ましたや調教であったはならないことを、自覚すべきである。
【2011年】
「思想統制、いつか来た道」(11.2.11・「週刊金曜日」)
「日の丸・君が代」の起立斉唱を、処分までして強制することは違憲だとして。東京都んどを訴えていた裁判で1月28日、東京高裁は一審を否定し合憲と判決したことに抗議する。
高裁は「特定の思想を外部に表明する行為ではなく、思想・良心の自由を定めた憲法に違反しない」との言うが、「日の君・天皇・靖国」は正に一体であり明らかに思想そのものであり、戦後、同じ敗戦国であるドイツもイタリアもその反省から国旗を変えたのである。
また「全国の公立高で広く定着」と言うがそれなら強制する必要はなく、思想信条・価値観を多数決で全員に強制することは教育ではなく戦前・戦中と同じ「調教」であり、当時の「宮城遙拝」や天皇の写真を入れた「奉安殿」に生徒・教師に最敬礼させたのと同じであり、その過ちに再度道を開くことになる。
原告は不起立を生徒たちに指導している訳ではなく、自身の思想信条を表明しただけであり、それを処分までして強制することは教師を人間として否定することになる。
多数決で「日の君」を国家・国旗とすることは妥協できるが、それに起立斉唱を「処分」までして強制することは断じて認められない。これは治安維持法の時代であり、教師が人間であることを否定したのである。
「諦めずに 皆の励みに」(11.4.14・東京新聞「発言」欄)
本紙連載「子ども貧国」で、頑張る姿を見せてくれた美香さん。4日付社会面「国立医学部受かった」を読みましたよ。本当におめでとうございます。お母さまもどんなにお喜びのことかと思います。
今、貧しいと塾にも予備校にも行けず。高等教育を受けることが困難な状況があります。貧乏人の子は貧乏という貧困の連鎖ともいわれています。
しかしあなたほ諦めずに自分の力でその壁を破ったのです。あなたへの支援の声は、ブレッシヤーの一方で励みにもなったことと思います。
好きこのんで苦労することほありませんが、無駄にほなりません。同じ立場の人を、理屈でほなく、自らの体験として理解できるようになるからです。
これからそんな人たちのためにしっかり勉強してください。そんな人たちがあなたを待っていると思います。
「国の愛国心強制に異議」(11.6.15・『東京新聞』発言)
9日付当欄の「君が代命令 合憲正しい」に異論を述べる。
筆者が「日の丸」の価値観をどう解釈するかは自由だが、問題はその価値観を処分までして強制することにある。そして、筆者は「愛国心に対する混乱を子どもたちに与えるべきではない」と言うが、不起立は無視すれば問題なく、当局がそれを強制するから混乱するのだと思う。
若い筆者は昔学校で、天皇の写真と教育勅語を納めた奉安殿への敬礼や宮城(皇居)遙拝を子どもたちに強制したことを知っているだろうか。これが国家権力の「愛国心」だ。愛国心を否定しないが教育の場でその価値観強制の教育、否、調教をしてはならないと思う。
再び「調教」の過ちを許してはならない。思想信条の自由より規律を優先し、いろいろな考えや価値観を認めない社会は民主社会ではない。
【2012年】
「いじめ訴訟棄却に憤り」(12.7.13・東京新聞「発言」)
今年20歳を迎えるはずだった娘さんが12歳の中学1年の時に、「いじめ」を理由に自殺した民事訴訟で9日、東京地裁が「自殺につながるようないじめはなかった」と因果関係を否定し、請求を棄却したことに憤りを感じる。
埼玉県北本市の中学に入学早々から「きもい、うざい」などと言われ、特定の人の名はないもの日記でもいじめを訴えていたという。同じことを言われても性格などにより受け止め方が違い、「いじめ」や「差別」は受けた人が感じれば「いじめ」「差別」であり、裁判官にそれを否定する権利があるのか。
ましてや生徒のアンケートを隠したり破棄したりするなどは言語道断で、ご両親の無念さはいかばかりかと思う。これでは子どもを安心して学校に預けることはできない。因果関係がないなら、今後の「対策も対処」も必要なく、学校や教育委員会、文部科学省の答弁は矛盾している。こんな「事なから主義」で教育ができるのか。
【2013年】
◆『働きながら夜学に』(2013.1.22・読売「埼玉版」)
私は18歳で私鉄の電車の検査部署に就職した。
電車はモーターが回って動く、しかし「どうしてモーターが回るか?」が解らず、夜学の専門学校で3年間「電気」を学んだ。そして、どうしてモーターが回るか?、どうして蛍光灯が明るくなるか?、次々と知りたい事が解り楽しかった夜学だった。学ぶと言うことは何と楽しいことか。私は定年まで平社員だったが悔いはなく、仕事にも自信が持てる42年だった。若い皆さんに「富や出世」のためではなく、興味や関心のあることをしっかり勉強して欲しいと思う。きっと楽しい事でしょう。
◆『夜間中学を埼玉にも』(2013.3.26・東京新聞「ミラー」)
19日付夕刊社会面の「夜間中学 81歳卒業の春 川口-荒川2時間かけ登校」の記事を読み、を多くの人は「頑張りましたね」と思うだろう。だが、私は改めて心から腹が立ってきた。
彼女を3年間も埼玉県川口市から東京都荒川区立第9中学校まで通わせたのは、記事にある通り首都圏で「夜間中学」がないのは埼玉県だけだからだ。そのため、彼女は都内へ「学区外入学」で学び、都がそれを黙認してくれた結果に26人の仲間と卒業することができたのである.
その川口市で「埼玉に夜間中学をつくる会」が週2日「自主夜間中学」を運営しながらも、28年も行政に「公立夜間中学設置」を求め運動している。毎年、署名活動や行政交渉もしているが、県は「市が設置すれば協力する」と、市は「なぜ川口市が」とまRで他人事で進展が無い。義務教育は憲法で認められた「人としていて生きていくための最低の知識」を保障するために、行政は行う義務があるのに、28年の善意の「学区外入学」に頼ってきたこと県や市は「恥」とも思わないのである。
私は現職の頃に川越市の職場から、その川口市夜間中学に週1回10数年通い数学を教え2時間かけて帰宅していた。今もボランティアの皆さんが頑張っている。行政は夜間中学に通わなければならない人の不自由や苦労をどれだけ理解しているのか。
それは年齢や人数の多少の問題ではない。埼玉県と川口市などは善意の「学区外入学」に頼らず学ぶ場を提供する義務を果たすきである。
「埼玉県教委に猛省を促す」(2013.5.18・東京新聞「発言」)
4月2日付埼玉中央版に掲載された「川越の重度障害児2年遅れで入学」を読み県教委に抗議の電話を入れた。
脳性麻痺の男児は鼻から挿入したチューブで栄養と水分補給が必要だが、県立別別支援学校ではその扱いをできず、月に数回保護者が学校で待機することを求められたため、川越市立の特別支援学級に2年遅れで入学したという。
男児は川越市立保育園の保育も認められていたのに、県立特別支援学校では安全上医療行為ができないとの話に、私が「市にできることを、なぜ県でできないのか」と質問すると県教委は答えられなかった。
ご両親は働いており、付き添いが無理なら「義務教育あきらめろ」とでも言うのか。義務教育は行政の義務である
県教委は記事の中で「看護師は一対一の対応はできない」とコメントしており、それを親が負担しろと言わんばかりだ。私は悔しさで胸がいっぱいになった。私たちは何のために税金を洗っているのか、教委に猛省を促す。
「検定済み教科書まで制限するな」(朝日新聞「声」2013.8.22)
広島の「平和記念資料館」のリニューアルに伴い、原爆で火傷を負った姿を再現し
た人形の撤去が問題になっているが、今度は松江市の教育委員会がマンガ『はだしのゲン
』の斬首した場面などが過激だと、学校図書室の書架から外し閲覧制限しているいう。
さらに、東京都教育委員会や神奈川県教育委員会などが検定済みの実教出版の高校日本史教科書に、国旗、国歌の掲揚斉唱について、「一部の自治体で公務員への強制の動きがある」との記述がそすぐわないと、校長などに採択しないよう要請していることも重大な問題ではないか。
これは戦争の悲惨や事実を隠すことであり、それでなくても教科書は検閲の名の下でほとんど違いがなく国定に近く、検定済み教科書にまで口を出すのは検定制度の否定である。
再び戦時中の「調教」の過ちを繰り返してはならず、言論表現の自由や知る権利の大切さは先の戦争が証明している。
【2014年】
【教科書選定で都教委に抗議】(2014.6.28・東京新聞「発言」)
東京都教委が昨年、国家国旗について「一部の自治体で公務員への強制の動きがある」と記述した実教出版の高校日本史の使用は不適切と高校側に伝えた結 果、本年度は一校も採択されなかった。都教委が記述に変更がなければ来年度の教科書選定にも同様に伝える、と公言したことに強く抗議する。
教育とは国や自治体の価値観を押しつけ、公に都合の良い人間をつくることではない。各校で自由なはずでの検定教科書の「検閲化」である。教育勅語や皇民化教育の間違いをなぜ繰り返そうとしているのか。
国の「圧力」に屈しなかった竹富島教委の例もある、今の権力が目指すのは「国定教科書化」であり、教育の自由と自治を守らなくてはまた同じ悲劇を繰り返すことになる。
「道徳の教科化押し付け危険」(2014.10.30・東京新聞「発言」)
中教審が、検定教科書を使い「道徳」を学習評価する正式な教科にする、と答申したことに抗議する。
「道徳」は価値観であり、人それぞれの価値観は違う。価値観を統一すれば、国に都合の良い価値観を教える「調教」となることは歴史が証明している。価値観をどう評価するのか。価値観を評価し、統一することは間違いである。
かつて天皇を神と、戦死を立派と教え、個より公を優先し、思想信条の自由を奪ったことをもう忘れたのだろうか。教科書は既に、政府に都合のよいことを書かせる「検閲」と化し、検定済教科書でさえ広域採択に反するからと教師や学校の自由な採択を認めない。検定制度の否定であり、かつての「国定教科書」につながる、非常に危険な動きである。
『本気なら教科書に戻せ』 (「自然と人間」16.2月号)
「慰安婦問題」で日韓政府が合意したが、彼女たちは蚊帳の外で面会も意見も聞かず
の合意に「水曜デモ」が続くのは当然だ。
安倍首相は日韓首脳会議に「前提条件を付けるべきではない」と主張しながら、この会議には「不可逆的、女性像の撤去」と条件を付けたことはご都合主義だ。首相は軍の関与を認め反省を表明したが、本気なら教科書から削除された「慰安婦問題」を戻し、歴史の事実を後世に伝えるべきだ。
周恩来が岡崎嘉平太との面談で『日本に恨みがあるが、忘れようよと努力している』( 07.3.19NHK・「命をかけた日中友好・岡崎嘉平太」) と言った事を首相は知っているのか。賠償請求も放棄し、日本人戦犯1062人の特別軍事法廷で一人の死刑も無期も認めなかった事を知っているのか。周恩来が『復讐や制裁では憎しみの連鎖は切れない』と判決原案を3度も書き直させた結果である。
日本は「加害」を忘れず、ドイツの様に後世にシッカリ伝える義務があり、謝罪とは相手が受け入れて成り立つのである。
『厳罰化より虐待原因探れ』(16.3.22東京新聞「発言」)
2月23日ミラー「子どもの虐待厳罰化を」を読んだ。処罰に反対はしないが死刑制度があっても犯罪は起きる。原因を考えなくては減少しない。子どもの非行も同じだと思う。 高齢化社会が進み孤独死も増えた。特に都会では近所付き合いも少なく、子育て世代も孤立化しがちだ。「隣は何をする人ぞ」ではなく、「おせっかい」が必要で、若い親たちを孤立化させなしことが大事ではないかと思う。
離婚も多く、再婚で義父や義母とのトラブルも多いが、今の若い人は「我慢」が足りないにも思う。親の離婚は子に大きな影響を与える。
平気で「できちゃった結婚」などと言うが、子育てに責任感が欠如しているようにも思う。
『黒石市はいじめ撲滅の義務がある』(2016.10.22・朝日新聞「声」
青森県黒石市の夏祭りの写真コンテストで、最高賞の市長賞に決まった写真の被写体
が、いじめでで自殺した青森市の中学2年の女生徒だったため主催者が受賞を取り下げた問題で、批判を受けた市長は一転して賞を授与する事を決めた。当然である。
写真の彼女の笑顔のはすばらしい。だが、私たちが考えなければならないのは、撮影された時点で彼女はいじめにあっていたということである。
心につらさと悲しみを抱えながら、好きな踊りができる場所で、精一杯の笑顔を見せたのであろう。あるいは、その時すでに死を考えていたかも知れない。何とも悲しく、かわいそうで胸がいっぱいになる。
市長には、氏名や顔写真が報道で公開されたことを、取り下げ撤回の理由にあげた。しかし、私は、主催者側に「いじめを」隠したい、触れたくない」という思惑があったのではないかと感じている。
しかしそれは逆であり、彼女を忘れず、二度と同じような自殺者を出さないようにしなければ、彼女は浮かばれない。黒石市は彼女の死をむだにしてはならない。いじめ撲滅につなげる義務がある。
『いじめの問題 親の責任も』(16.12.9東京新聞「発言」)
学校での子どもの深刻なイジメがなくなならず、学校の責任が問われている。保護者は学校に子どもの命を預けているのであるから当然でもある。
だが「子どもの成績が悪いからシッカリ教えて」というのは分かるが、「子どもがイジメをしないように監視して」などと学校に依頼するのはお門違いであろう。イジメは本来学校だけの責任ではなく躾の問題で親の責任でもあるが、親の責任が問われ話題になることはない。
イジメはイジメた親の監視、子育てに大きな問題がある。未成年で子どもの責任が問えないなら親の責任を問うべきであり、その責任が問われないから、親が子の躾や子育てに無責任になるのではないだろうか。
【2017年】
『本当のことは自分で知ろう』 (「東京新聞」発言 2017.10.26)
中学生のミラー「教科書いらずの授業(19日付)を読考えました。
教科書は検定の名の下、検閲された使用を義務づけ、内容は権力の都合の良いように検定されてしまいます。戦争の加害表記も次々と消えていきました。 「国旗国歌法」が成立した時の「強制はしない」との付帯決議は無視され、学校では国歌を起立して歌わない教師は処分されています。
、 かつて日本は「皇国、皇軍、臣民」とすべて天皇のもので、天皇の写真と教育勅語を入れた「奉安殿」に最敬礼させました。当時の修身はいま、道徳と名を変え復活、正規教科に格上げされます。学校や教科書で教わることがすべてでなく、本当のことは、「自分で知ろうと努力」しないとだまされるのです