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【方正地区日本人公墓・中日友好園林】
敗戦直後、多くの日本人開拓民は軍に棄民され日本を目指して逃避行を強いられた。ソ連国境付近からハルピン、長春(新京)、 瀋陽(奉天)などを目刺し逃避行を続けた。しかし、ハルピン郊外約200キロの「方正」まで辿りついたが、寒さと飢えで約3000人が犠牲になり仮埋葬された。
戦後、残留婦人の松田ちゑさんが風雨にさらされる遺骨を見て、地方政府に「埋葬させて欲しい」と申し出たが、その要望が中央政府まで届き周恩来の「中国政府の仕事としてやる」との返事が届き実現した。それがこの「方正地区日本人公募」である。それだけではなく、隣には集団自決の「麻山地区日本人公募」が、また、残留孤児が建てた「中国養父母公募」もある。
更に戦後、岩手県から稲作指導に来た藤原長作の指導で、現地の稲作収穫が倍増し現地の皆さんから神様の様に尊敬されていた「藤原長作記念碑」もある。
中国人の農地を奪った憎き日本人開拓犠牲者のために、日本人の習慣や墓地を勉強しハルピンで石を見つけ松花河の増水を待ち船で現地まで運び、日本に向けて建ててくれたという。そこは策で囲われ『中日友好園林』として、中国の支援で綺麗に管理整備されていた。
撫順戦犯管理所と同じ「赦しの原点」であり、我々はその恩を忘れてはならない。