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【撫順戦犯管理所】(2010/6)

 「撫順戦犯管理所」(遼寧省撫順市)は戦時中、日本が中国人収容のために作った監獄だが、皮肉にも日本人戦犯約1000人と溥儀が収容された場所である。

 戦後60万人が「捕虜」としてシベリアに抑留され約6万人が犠牲になったと言われている。その内の約1000人が5年後の1950年、独立間もない中国に今度は「戦犯」として引き渡され収容された先が「撫順戦犯管理所」であった。


 当初、彼らは「なぜ俺たちが戦犯!?」と反抗していたが、管理所では何の制裁も復讐おなく、中国人がコウリャン飯を1日2食しか食べられない中で、彼らは白米を食べ肉野菜など十二分に与えられ、その状況は何時までも変わらなかった。

 

 彼らは主に59師団の兵士で山東省などで焼き尽くし、奪い尽くし、殺し尽くしの「三光作戦」処か、強姦や強制連行などその多くが民間人への加害・虐殺をしていた。2000年に従軍慰安婦問題を裁いた「女性国際民間法廷」で加害証言した2人も此処に収容されていた元兵士である。


 管理所には日本軍に家族を虐殺された職員もおり、多くの虐殺をした「日本鬼子」になぜ寛大質をとの批判もあったが、周恩来は「制裁や復讐では憎しみに連鎖は切れない。20年後には解る」と諭した。

 当初、彼らは処刑を恐れ中国の寛大措置に疑心暗鬼だったが、徐々に過去を振り返り「認罪」して行った。そして、56年の特別軍事法廷では死刑も無期もなく45人除き「起訴免除」とされ赦された。起訴された45人もシベリアと管理所収容期間を刑期に参入され満期前に帰国を許された。

 

 帰国後、彼らは「中国帰還者連絡会(中帰連)」を組織し、高齢のため02年の解散まで自らの体験やが加害を証言しながら反戦平和と日中友好を訴えて来た。彼らは今まで何度も管理所と交流を図って来たが、今回「撫順戦犯管理所60周年式典」に元兵士2人と共に「中帰連」の意志を受け継いだ「撫順の奇蹟を受け継ぐ会」などの仲間約100人が式典に参加した。そして、平頂山惨案記念館、731部隊罪証陳列館、方正地区日本人公募 なども訪ねた。