「NPO・中帰連平和記念館」と「撫順の奇蹟を受け継ぐ会」
敗戦後、ソ連に60万人もの日本軍兵たちが捕虜として酷寒のシベリアへ抑留され強制労働を強いられ、その内約6万人が犠牲となった事は知られている。しかし、敗戦5年後の1950年、その中の969人が戦犯として中国へ引き渡されたことはあまり知られていない。
彼らは50年の初夏、中ソ国境の「綏芬河」で中国に引き渡され、収容された先が【撫順戦犯管理所】だった。そこは元日本軍が占領時代に作った撫順監獄で、当時「抗日分子」の拷問で悲鳴の聞こえなかつた日はなかったという。皮肉にも元日本兵の戦犯たちが此処に収容され、最後の皇帝・溥儀も一緒だった。
当初「俺たちは戦犯ではない!」と処刑におびえ、自暴自棄になった日本人戦犯たちは『軍命に従っただけだ。どうして俺たちが戦犯なんだ』と反抗していた。彼らの多くは戦時中、中国で捕虜や民衆を虐殺し、食糧を奪い、家々を焼き払い、毒ガスや生物兵器を用い、生体解剖の罪業まで行っていたのだ。
そんな彼らには周恩来の『戦犯といえども人間であり人格と日本人の習慣を守り、殴打も罵倒もしてはならない』との指示が徹底された。戦犯管理所に来て驚いたのは、看守たちが1日2食のコウリャン飯しか食べられない時代に、彼らは暖房も効いた充実した設備に1日3度の白米や肉野菜を与えられ、そのh即時は中国人数家族分であった。そして管理所職員による人道的な待遇だった。さらに十二分な時間を与えられ、何の強制もなく戦犯たちはそれまで経験したことのない生活を送ることになった。
しかし、被害者の痛みを「この戦犯たちが心から理解する日は来るのか?」、戦犯たちを収容し管理する看守たちは、その多くが日本軍によって家族を殺され、自ら傷つき、抗日と革命に身を投じた人たちであった。
人道的な待遇と、人生で初めて与えられたあり余る時間のなかで、彼ら戦犯たちの心に変化が生じ始めた。暖か<接してくれる職員たち、自分たちが中国の民衆に対して何をしてきたのか。それから戦犯たちの"認罪の旅"が始まった。
やがて「あれを話せば死刑になる」という恐怖心を持ちながら事実を認め謝罪していった。しかし、そこに至るには6年という日数を要した。中国の人道的寛大政策によつて認罪が認められた戦犯たちは、56年の「特別軍事法廷」で軍・政府高官の45人有期刑の他は、一人の死刑も無期もなく罪を赦され帰国した時には、既に戦後11年が経過していた。有期刑45人もシベリアと戦犯管理所の収容期間の計11年を刑期に参入され刑期満期前に帰国している。帰国に際し、彼らは中国政府から新らしい服と靴や毛布、現金50元までもらいお土産を買って天津から「興安丸」に乗り舞鶴へ向かった。
命を救われ帰国後した彼らには「シベリヤ帰り、中共帰り、赤」などのレッテルを貼られ、公安警察に後を付けられ就職も困難であった。 しかし、彼らは帰国翌年の57年には「日中友好、反戦平和」を求め『中国帰還者連絡会(中帰連)』を結成し、高齢のため解散した2002年まで、自らの戦争体験や加害を証言しなが運動を展開してきた。解散と同時にその意志を受け継ぎたいと『撫順の奇蹟を受け継ぐ会』が発足し、2006年には川越に『中帰連平和記念館』のNPOを設立し、中帰連や反戦平和関連の図書、映像、写真等の資料を保存し利用に供している。